真宗講座浄土真宗の行(7月中期)

では、最後の第十七願と第十八願との関係はどうでしょうか。

第十七願の「咨嗟称我名」と第十八願の「乃至十念」は、本質的に同一だとしても、果たしてそこに相即を語ることができるでしょうか。

通説にしたがえば、法然聖人の法義を「一願建立」、親鸞聖人の法義を「五願開示」だとしています。

親鸞聖人は法然聖人によって打ち立てられた第十八願義を分析され、その趣きを五願に開出されたとするのです。

ことにその中、第十八願の「乃至十念」が注目され、その義を第十七願のなかに見ようとしているのですが、この二願に果たしてそのような関係があるのかどうか、大いに疑問視する必要があります。

なぜなら、そのような方向で第十七願と第十八願を捉えようとする試みは、歴史性を無視し思想の展開に逆行するあり方に他ならないからです。

すでに明らかにされているように、『無量寿経』の成立は、この両願が分離してゆく過程の中に見られます。

すなわち、本来は一つの願であった願文が後に二願に分離したのですが、このように一つの願が二つに分離したということは、それぞれの願が本質的に異なった意義を持つようになったからだと言えます。

つまり、願文の思想が明確に異なっているからこそ、二願がそれぞれ独立して存在する価値があるのです。

では、両願の本質的相違はどこにあるのでしょうか。

言うまでもなく、一方が仏の称讃を、他方が衆生の生因を示すところに両願の根本的差異が見られます。

再言すれば、第十七願は諸仏の行為を示している願であるのに対して、第十八願は衆生の獲信についての願文なのです。

したがって、両願が質的な違いを持っている以上、私たちがその願文を見る時には、そこに注意をはらい、常に一線を画して両願を語らなければなりません。

そうでなければ、両願の真意を根本的に見誤ることになってしまいます。

このようにみると、第十七願の「咨嗟称我名」と第十八願の「乃至十念」は、質を異にする全く別個の行為だとみなければなりません。

両願を直ちに同一視してはなりませんし、また安易に両願の相即を語ってもならないのです。

それ故、親鸞聖人はその経典の意図を汲んで一方を「行巻」に他方を「信巻」に分かたれたのです。

いわば両者は、次元を異にする「行」として明確に対応させられるべきものなのです。

これを伝統の宗学では、経典や親鸞聖人の意図とは逆に、同一視しようとする方向で両願の義を捉えようとしています。

ここに、従来の論自体がもつ矛盾性を指摘することができます。

もしこのような理解の仕方が通るとすれば、「行巻」の本質は第十七願の「諸仏の称名」ではなく、第十八願の「乃至十念」でも、また『観無量寿経』に説かれる「具足十念」でも良いことになってしまいます。

けれども、そうであるとすれば、親鸞聖人が「行巻」に第十七願を配された意図が薄れてしまいます。

「行巻」の標願に第十七願が明記されている以上、親鸞聖人においては大行の本質は第十七願以外にはなく、第十八願の「乃至十念」や下下品の「具足十念」ではなかったと見なければなりません。

このことから、親鸞聖人における「行」の概念は、単に第十八願の「乃至十念」の義のみでは捉えることのできない、より広範囲な、あるいはそれとは別の範疇に属して成立しているものとする必要があり、このことを私たちは改めて確認しておくべきだと思われます。

親鸞聖人の「行」の思想は、「咨嗟称我名」と「乃至十念」の両義に及びます。

もちろんこのことは、従来の行論における中心的な課題ですから、その意味ではこれは目新しい問題ではありません。

ただし、従来の論考はこの二者を「名号」と「称名」という観点からとらえ、その両者がいかに相即するかという点に論議を集中させてきたかのように見受けられます。

けれども、親鸞聖人の行論を学ぶに際しては、反対にその両者の相違面に関心を寄せることが重要なのです。

それは、観念的に捉えられた「名号」と「称名」というような相違ではなく、「咨嗟称我名」と「乃至十念」は、私たちの具体的現実の世界では、共に「称名」という同一の相を取るからです。

この故に、従来はこの二つの「称名」を如実の称名として同一視し、両者における相即が語られてきました。

しかし、これら両者は、衆生の口から出る「称名」という同一の相を取りながら、実は一方が諸仏の行為としての「称名」であり、他方は衆生の聞名となるべき「称名」です。

したがって両者は、説法と聞法との関係において対峙されるべきものであり、決して安易に同一化されるべきものではありません。

いわば両者は、相対応すべき存在、常に緊張し反発しあいつつ、しかもある時点でそれが重なり合うべき関係に置かれているのです。

この点を、私たち真宗者は自己自身の上で、自らの行動を通してもっと厳しく見つめるべきだと思われます。

それは、そのような緊張関係を自身の上に求めていくところに、真宗者の真の実践があると考えられるからです。

要約すれば、私たちは今まで、ただひたすら「信心正因・称名報恩」の義のみを、大切に宗義の表面に押し出してきました。

もちろん、この義が全面的に誤りだとはいえませんが、それはあくまでも親鸞聖人の一面しかとらえていない思想であることもまた事実です。

親鸞聖人の「称名」思想には、明らかに「称名正定業」と「称名報恩」の二義が同時に有せられていると考えられるからです。

しかもそれが「信」の思想を中心に、複雑な色模様を織りなしているように見受けられます。

では、それぞれどのような意義があり、それらが互いに、いかに関わり合っているのでしょうか。

ここに、親鸞聖人における「行」の考察の本題があるのだと言えます。

冒頭、真宗者は「行」の問題を考察する場合、三つの立場を常に考えておく必要があると述べました。

・第一は、一切の衆生を摂取する廻向法としての「弥陀の名号」

・第二はその名号法を伝達する説法としての「諸仏の称名」

・第三は名号法の説法を聞法する、信楽を獲得する場としての「衆生の称名」

です。

これらはすべて「無碍光如来の名を称す」という相で現れるのですが、この「称名」はそれぞれの立場において、異質の概念をもつという点に、親鸞聖人の思想の特徴が見られます。

では、それぞれの称名は、親鸞聖人の思想の上でどう関係付けられているのでしょうか。

第一は弥陀の選択本願の行としての「名号」の本質の問題であり、第二が第十七願、そして第三が第十八願の内実の問題になるのではないかと思われます。

そうしますと、第一は「行巻」と「信巻」に関わり、第二が「行巻」の、第三が「信巻」の根本問題になります。

そこで、まず第二の「行巻」の内実としての第十七願の称名思想が、この論考の中心問題ということになります。