では、第三の問題として、その「称名」と「信」の有無の関係はどうなのでしょうか。
私たちの常識としては、称名が「大行」といわれる以上「その称名は自力の称名であってはならないし、当然そこには信が具せられていなければならない」と考えます。
けれども、果たして自力の称名、あるいは信を具していない称名は、大行と呼ぶことはできないのでしょうか。
もしそうだとすれば、私たちはここでもまた不可解な矛盾に遭遇することになります。
ここで、親鸞聖人はなぜ称名行を「大行」と呼ばれたのか考えてみることにします。
親鸞聖人は、称名こそ仏廻向の法であり、仏の行なるが故に「大行」と呼ばれたはずです。
そうであれば、衆生の行為がどうして仏の力を左右することができるでしょうか。
ここに、私たちが陥っている本質的な誤りを見いだすことができます。
これまで私たちは、仏の力を尊ぶあまり、敬虔な態度で自己の自力性を極力避け、信の重要性をできるかぎり強調してきました。
それ故に、自力の称名は大行でなく、信のない称名もまた大行とは呼び得ないと論じてきました。
しかし、実はそれはむしろ大行を貶めていることになっていると言わざるを得ません。
なぜなら、「大行」とはいわば仏のはたらきに属するものであり、自力とか信の有無とかは衆生の心に属するものだからです。
したがって「称名」が衆生の心の持ち方次第で「大行」であったりなかったり、自由に変えうるとすれば、仏の力を衆生が支配することになります。
そうすると、「衆生の力の方が仏力よりも強い」というおかしなことになってしまいます。
大行の大行たるゆえんは、衆生の行為あるいは心に関係なく、それが大行として成立するものでなければなりません。
たとえ、その称名に信がなくても、あるいはまた自力の称名であったとしても、称名がひとたび大行と呼ばれる以上は、そこに大行義が成立しなければなりません。
無信のところに大行が働き、自力性を破り信を成ぜしめてこそ、大行としての面目があるからです。
そうであれば、称名の中にそのような力がなければなりません。
決して、私の心によって「称名」の価値が左右されてはならないのです。
このように見れば、第四の「信一念と行一念の関係」の中にも、明らかな誤りが見いだされることになります。
宗学では信一念が行一念に先立つとします。
しかしながら『教行信証』を繙けば自明のように、「行巻」が「信巻」に先立っています。
いうまでもなく「行巻」には行の一念が、「信巻」には信の一念が示されています。
そうすると、行の一念は信の一念に先立つということになるはずです。
ところが、宗学ではこの順序を入れ替えて、信の一念が行の一念に先立つとしています。
これは、『教行信証』の流れから見て、明らかに矛盾しています。
ではなぜ、宗学ではこの単純な誤りを敢えておかそうとしているのでしょうか。
これこそ「名号論」の誤謬に基づくものだと思われます。
親鸞聖人においては、「仏名を称する」こと以外に名号もなく称名もありませんでした。
それは、私たちの悟性を超えたところに存在する観念的な行としての名号は、その思想にはなかったということです。
ところが、本来一事象である「仏名を称する」という行為を、後世の伝統宗学では「名号」と「称名」という二つの要素に分け、超理性的な法体大行としての名号という観念的相好を導き出しています。
もしその大行が信を起こすのだとすると、私たちの認識の対象となる「称名」は、当然、信以後の相とならざるを得ません。
ここに『教行信証』の説示を逆にしてまでも、信一念の後に行一念を配さなくてはならなかった理由が存在します。
けれども、仮にそのように観念的な「法体大行としての名号」という考え方を取り除いたとするとどうでしょうか。
具体的に「仏名を称する」こと以外に大行がないとすれば、『教行信証』の記述通り、もっと素直に行の一念と信の一念との関係を把捉することができるのではないでしょうか。
聖典を拝する場合、何よりも重要なことは、その文章に即して読むということです。
だとすれば、そこに自己の意を加えて、行の一念と信の一念を逆にするよりも、親鸞聖人にあってはなぜ行の一念が信の一念に先立つのかということを考察することが肝要だといわなくてはなりません。
では、なぜ親鸞聖人においては行の一念が信の一念に先立つのでしょうか。
これもまた明白なことであって、行の一念が「口称」の相を取りながら、それが大行であるからです。
仏大悲廻向の行は、常に衆生の心に先行し、私をして真如に導いて下さいます。
その仏の行が、行の一念だとすると、それが信の一念に先立つことは極めて当然のことだといわなくてはなりません。