さて、以上の諸説に対する批判に関しては、『本典研鑽集記』(本願寺宗学院編)や『真宗行信論の組織的研究』(普賢大円著)によっても明らかに知り得るように、すでに整理されていると言えます。
ことにその中、前著は空華学派の立場から石泉及び豊前の学派に対して鋭い批判が試みられています。
これらの説が参考になることは当然ですが、ここでは空華学派の立場についても批判を試みることにしているので、従来の諸批判はひとまずおいて、これら先学の説のどこに疑問を感じているのか、以下明らかにしていきたいと思います。
石泉学派僧叡師の大行説は「行信二法は衆生の上で語られるべきだ」とするところに、思想の特徴があるように窺われます。
それが「教巻」と「行巻」「信巻」両巻の関係であって、釈尊の教えを私が行じ信じる、その組織の上で『教行信証』を見なければ、「教巻」に対して「行巻」「信巻」が説かれた意義がないとされます。
けれどもこの大前提は、根本的な過ちをおかしているのではないかと思われます。
それは「行巻」と「信巻」の思想を、同一人の行信の問題として語ろうとするところにあると言えます。
すでに明らかにしているように、第十七願と第十八願は、機において同一人ではありません。
従来の宗学は、この点に注意が払われていません。
もし第十七願を諸仏の行とし、第十八願を衆生の獲信の場に見るなら、石泉学派の教位と機位あるいは当分跨節といった複雑な論を立てる必要はなかったはずです。
ところがこれらの説に関しては、従来においても批判の対象になっています。
ただし、それらの批判は、批判者自身が石泉学派と同一の次元に立っているので、批判そのものが「第十七願を教位にみるならば、行巻を第十八願にせよ」とか、「行巻にのみ当分跨節といった意を持たせるのはおかしい」といった、単なる言葉のやりとりに終始して、その本質を突く批判とはなっていません。
では、この説のどの点に誤りがあるのでしょうか。
第一は「教巻」と「行巻」の関係についての誤解であり、第二は第十八願と第十八願の思想の混同にあるといえます。
端的には、「教巻」では弥陀三昧に入った釈尊の心が、「行巻」ではその釈尊によって語られる弥陀の名号法の真実が示されています。
したがって、第十七願の機の獲信について語られるべきものではなく、第十八願の機に対して働く行相であっても、これら二願は同一視すべきではありません。
例えば僧叡師の著『随聞記』に、「第十八願・第十九願・第二十願のそれぞれの衆生は、等しく第十八願の法を聞くにも関わらず、第十八願の機のみ真にその法を聞きうる」と説かれる箇所がありますが、まさに第十七願の思想はそれで、諸機の行に対して教法となる願なのです。
それを諸機の願の一つである第十八願に寄せて語ろうとするところに、この説の矛盾が見られると思われます。
そしてこれは、以下の諸学説すべてにかかわる思想です。
さて、このようにみると、最初の「信を具する称名」を大行とする定義は「諸仏の説法」と「衆生の聞法」という関係を明確にとらえていないと言わざるを得ません。
第十七願に立つ限り、衆生の獲信の問題は問われていないからです。
そこで、信に関する点をはずせばどうでしょうか。
法相の表裏・稟受の前後といった説を立てる必要はなくなります。
そして、第十七願に立つ限り、称名それ自体が自力とか他力とかいったことを問題にしていないことも明らかになります。
では、石泉学派に於いて、大行論として残りうる点は何でしょうか。
それは出体釈を、文字通り「衆生の称名」とおさえたところにあると思います。
ここを次項の論点にしていきます。
空華学派は、「法体の名号」を大行とします。
この学説を評して、次のように言われています。
「行信論は数百年の間に亘りて、幾多の学匠に依り、苦心惨憺の研鑽を経、遂に空華先輩殊に善譲師に至りて殆ど其の発展の極致に到達せり」と。
この一文によっても理解することができるように、これが現在では宗学の定説となり、宗学を学ぶ人の大半はこの思想の影響を受けているといえます。
けれども、果たして「極致」といえるような内容なのでしょうか。
むしろ、最も欠点のない思想を生もうとしたところに、実は最大の欠点があるように思われます。
では、いったいどの点に問題があるのでしょうか。
この学派の行論の中心は、名号を大行とするが故に衆生が称える称名はそのまま法体名号の発露であるとし、したがってその称名は名号と不二であるとする点にあります。
この点についは首肯することができますが、ただしこの道理は、第十七願と第十八願の、それぞれの願では言えても、この二願の関係においては論じえないことに留意する必要があります。
この点、空華の学説は、すべてを法体にまきあげ、能所不二融通無碍を語るあまり、獲信者と未信者の関係を全く無視してしまっています。
例えば、ここに第十九・第二十・第十八の三機がそれぞれ称名しているとします。
それぞれの称名が法体名号の発露だとすれば、それぞれの機の称名はどこで区別がなされうるのでしょうか。
名号そのものからいえば、すべて法体より廻向された称名だというべきです。
けれども、衆生の上においてはその称名に厳密な区別がなくてはなりません。
それをどこでなすかというと、用意されている答えでは「相即を語りうるのは第十八願の機においてのみ」ということになります。
けれども、空華の学説では、そのように答えることはできません。
なぜなら、もし「称名」を私が称えるものとするなら、称えることの中において信を得る契機は宿されているというべきです。
しかし、すべてを法体の発露とし、しかもその上で名号を具する称名と、名号を具していない称名とを区別するというのは、どういうことなのでしょうか。
私の称える称名に、名号を具しているか否かなど、判断のしようはありません。
それは、本来一体なるものだからです。
そこで、信の有無を強調することになるのですが、では未信の者にとって、どのような名号が信を生ぜしめることになるのでしょうか。
能所不二では意味をなさなくなってしまいます。
したがってこの学説は、獲信後の衆生、既信のものにとっては有り難いと感じられる思想ではあっても、未信の者にとっては、いかなる価値をも有さないと言えます。
ことに、すべてが名号にまきあがるとすれば、私たちにとって称名がなぜ必要であるかの積極的な論は生じません。
現在、真宗の法に接している人の様子を窺うと、称名をただ有り難がっている人など殆ど見られません。
仏に摂せられているという法を聞いても、それを体得することができず、どこまでも仏と隔絶している自己を、悲歎している者にとっては「能とすれば能、所とすれば所」あるいは「終日能行すれども所行海を出でず」といった悠長な心は生じません。
だからこそ、未信の者に対する獲信者からの名号法についての説法が必要になるのです。
このようにみると、第十七願と第十八願は、不二ではなく、両者の機の名号は、一方が他方を導く関係にあると言えます。
にもかかわらず、この二者の関係を消そうとしているところに、この学説の問題点を見ることができます。
ただし、称名の本質が名号であることは真実なのですから、この点については、空華学派の説を尊重しなければなりません。