ご講師:山﨑敏廣さん(三十六代木村庄之助)
私はもともと「行司になりたい」とは思っていませんでした。
夢が別にあったんです。
しかし、幸か不幸か、この相撲の世界に入り、行司になってしまいました。
その背景には、私の両親の友人であり、後に私の師匠となる二十六代木村庄之助さんの存在がありました。
その方は、
「行司のなり手が誰もいない。このままでは日本の古きよき伝統を守っていける若い人材が育たない。これじゃあ相撲協会はもう危機に陥る」
という考えを持っておられたんです。
その方がうちに遊びに来ているとき、部活を終えて帰宅した私に
「君は何年生か」
と突然声をかけられました。
そこで「中学3年生です」と答えると、
「ちょうどいい。行司になりなさい。君は相撲が好きなんだろう」
と言われたんです。
私はそこまで相撲が好きな訳ではなかったのですが、当時もろ差しの名人といわれ、大活躍していた力士の鶴ヶ嶺さんには会ってみたいなと思いました。
それで「鶴ヶ嶺を見に行くか」と言われたので、連れて行ってもらったんです。
ところが、なぜか行司さんの部屋に連れて行かれ、結局鶴ヶ嶺さんには会えずじまいでした。
訳の分からない現状に腹が立っていた私にその方は、「すぐに来なさい」と言うんです。
戸惑うしかありません。
そのときは「何言ってるんだ」と思いながら帰宅しました。
その後、確か昭和38年の暮れだったと思います。
両親が私に一言、「行ってこい」と言ってきたんです。
もちろん抵抗しました。
「嫌だ。警察官になりたいから一生懸命勉強しているのに」
と言って、私は逃げていました。
しかし、大人の方が一枚上手でした。
ある日、学校の朝礼のとき
「山﨑敏廣、ちょっと来い。朝礼台に立ちなさい」
と言われ、訳の分からないまま、恐る恐る朝礼台にあがったんです。
すると当時の校長が一言、
「山手町出身の山﨑敏廣君が日本相撲協会の行司として、年が明けて早々に東京に行きます。みんなで送り出しましょう」
と言ったんです。
こっちは寝耳に水ですよ。
校長先生に
「まだ学校も卒業していませんから」
と言うと、
「学校のことは大丈夫。転校手続きもしてあるから」
と言われ、親から住民票代わりの米の通帳を持たされ、有無を言う間もなく東京行きが決まりました。
年が明けて1月15日に枕崎の駅を出発したんですが、そのときは町をあげて送り出してくれたんです。
子どもながらに、
「ああ、これは辞めるに辞められないなあ」
と思いましたね。
あんな小さな町にこれだけの人がいるかなというぐらいに集まり、威勢よく正午のサイレンと同時に「バンザイ」で送られました。
日の丸の旗には、激励の言葉がいっぱい書いてありました。
昭和39年というと、高度経済成長期で、東京オリンピックや東海道新幹線開通、そして夢の高速道路。
そんな時代でした。
東京へ行く方法は、当時主に集団就職列車だったので、私もてっきり鹿児島から列車で東京に行くんだろうと思って、当時としては珍しい乗用車で枕崎の駅を出発しました。
しかし、ずっと行っても西鹿児島駅にたどり着かないんですよ。
こんなに鹿児島市内って遠かったかなと思っていたら、その車は直接、東京まで向っていたのです。
到着には3日かかりました。