先月、中央教育審議会の道徳教育専門部会が、現在は正式な教科ではない小中学校の「道徳の時間」を、数値評価を行わない「特別の教科」に格上げし、検定教科書を使用することなどを盛り込んだ答申案をまとめ、文部科学相に答申を提出しました。
これを受けて、文科省は学習指導要領の改定などを経て、早ければ平成30年度以降の教科化を目指すことにしました。
これは、教科書作成から使用まで3年かかることを踏まえてのものです。
なお、答申案では、現行の道徳の時間について「学校や教員によって指導の格差が大きい」と課題を指摘。
今後は「特別の教科道徳」(仮称)に位置づけ、成績評価は他教科のような数値ではなく「成長の様子などを文章で記述する」と明記しています。
また、充実した教材が必要だとして「検定教科書を導入することが適当」としています。
さらに、家庭や地域との連携強化が重要と指摘した他、具体的な学習内容として、いじめ問題、情報モラルや生命倫理など現代的な課題を扱うよう求めています。
今どうして、道徳教育の格上げが必要なのでしょうか。
また、なぜ「特別」なのでしょうか。
道徳教育は、戦後一貫して「学校の教育活動全体を通じて行う」(学習指導要領総則)とされています。
学級活動や学校行事はもちろん、国語や社会だけでなく算数(数学)や理科など教科の授業の中でも道徳教育は行われる、というのが前提です。
ただし、一定の学習時間は必要だということで1958年以来、小中学校に「道徳の時間」が特設されました。
専門用語としては、道徳教育は教科ではなく「領域」と位置付けられています。
このような扱いになっている理由としては『教育勅語』に基づく徳目を教え込むことを中心にしていた戦前の教科「修身」に対する反省が大きく影響していると考えられます。
ところで今回、なぜ道徳を「特別の教科」としているのでしょうか。
実は「教科」とは何かという明確な定義がある訳ではありません。
一般的には(1)「免許を持った専門の教師」が(2)「教科書を使って指導」し、(3)「数値等による評価を行う」とされています。
このうち(1)の項目に関しては、もともと教員免許を取得するための大学の教職課程で道徳の指導法が必修化されています。
道徳教育が学校の教育活動全体を通じて行われる以上、改めて独自の免許を出すというのは不自然です。
(3)に関しては、中教審への諮問の前に設けられた有識者による「道徳教育の充実に関する懇談会」(2013年4~12月)では「人格全体にかかわることを数値により評定をつけることはなじまない」と結論付けました。
一方で道徳の時間を充実したものとするためには、(2)のように「検定教科書を使うべきだ」としました。
こうした一般的な教科との違いから、同懇談会が「特別の教科」と位置付けるよう提言し、それが中教審にも継承されたため「特別の教科」になった次第です。
実は、道徳教育を強化しようとする動きは今に始まったことではなく、保守合同(1955年)以前からの自民党の一貫した悲願です。
殊に『美しい国』戦後レジームからの脱却」を目指す安倍晋三首相は道徳教育への思い入れが強く、第1次安倍内閣の下で首相直属の機関として設置された「教育再生会議」でも規範意識の徹底と「道徳の時間」の充実を提言。
2008年に改訂された現行の学習指導要領では「学校における道徳教育は、道徳の時間を要として学校の教育活動全体通じて行う」と、「道徳の時間」の重要性を強調。
新設の「道徳教育推進教師」を中心に全教師が協力して道徳教育を展開することも求めました。
それでもなお「教育再生」は実行が不十分だった、というのが第2次安倍内閣の認識です。
そこで、教育再生会議の後継機関である「教育再生実行会議」は第1次提言(13年2月)で「道徳を新たな枠組みによって教科化」することを提案。
先の有識者懇談会の報告を待って、文部科学相が14年2月に「道徳に係る教育課程の改善等」を中教審に諮問し、10月に答申が出されたという訳です。
さて、教育に限ったことではありませんが、いろいろなことが「昔はよかった」的な印象論で語られることが少なからずあります。
「道徳の教科化」も、おそらくそれと軌を一にするものであると考えられます。
なぜなら、教科化を提案しているのは「教育再生実行」を会議の名称としている機関だからです。
つまり、現代社会における深刻な問題の一つである「いじめ」に対する有効な解決手段として、「昔の道徳教育は良かった」という印象をもとに道徳の教科化が提起されていると思われる節があるからです。
明治の初期から、学校の授業には「修身」と呼ばれる道徳を教える科目がありました。
そのため、会議のメンバーの中には、「戦前は道徳教育がきちんと行われ、人びとの間に広く浸透し、社会には道徳心あふれる人が大半を占めていた」かのような印象があるのかもしれません。
そこで、「再生」の名のものとに道徳教育の推進と教科化が求められているのですが、果たして本当に「昔は良かった」のでしょうか。
『「昔はよかった」と言うけれど』(大倉幸宏著・新評論)によれば、親殺しや子殺し、虐待は、実は戦前の方が多かったことが分かります。
そのため、修身教育に力を入れていたのだとも考えられます。
そのことを裏付けるかのように「電車内で席を譲らない若者もいれば、化粧をする女性がいる」ことを当時の新聞が嘆いています。
さらに、弁当や菓子、果物などを食べた後のゴミ、新聞紙、紙屑、煙草の吸殻などが車内のいたる所に散乱し、車内衛生が大問題になっていました。
このことから、戦前、道徳教育(修身)が熱心に行われていたのかもしれません。
けれども、その道徳教育によって人びとの道徳心が高まっていたとは言えないようです。
また、一見「教育再生実行会議」「中央教育審議会」というと、あたかも教育の専門家の集まりであるかのような感じがしますが、実はそのメンバーには必ずしも教育の専門家だけが入っている訳ではなく、また人選もその時々で行われているため継続性がありません。
端的には、いわゆる「識者」と呼ばれる人たちによって、それぞれの印象や思い込みで議論がなされ、その結果が答申されることになるのです。
これに対して「学力世界1」といわれるフィンランドには、国家教育委員会という組織があり、その委員は全て教育の専門家で構成されています。
フィンランドでは、この委員会が教育カリキュラムの改訂を行っているのですが、委員会では自分たちで決めた教育カリキュラムが、学校現場でどのような結果をもたらしているかを継続的に検証し改訂を加えています。
さらに、改訂による変化を継続的に調べ、次の改訂に活かしています。
つまり、教育のプロが継続的にデータをとりながら、そのデータに基づいて議論を重ね、教育カリキュラムの改訂を行っているのです。
このことが「学力世界1」をもたらしていると考えられます。
このような意味で、「昔はよかった」という印象に基づき、「道徳教育」を強力に展開すれば「いじめ」をはじめとする青少年に見られる多くの問題が解決すると考えるのは些か短絡的であるように思われます。
だからといって、憂うべき現状を是認する訳ではありません。
思い込みや印象で理想を求めようとするのではなく、掲げた理想をいかにして実現していくか。
そのためには、先ずは、その方法を論理的に検討することから始めるべきなのではないかと思います。