浄土真宗のみ教えで聞かせていただいたことは、亡くなられた方は阿弥陀さまのお力で仏となり、私たちを見守ってくださるということです。
私が僧侶になろうと思ったのも、祖父の死がきっかけです。
大学4年生のとき、突然祖父が亡くなったんです。
私が小さいころ祖父母によく面倒をみてもらったので、父親や母親と同じくらい、いえそれ以上に祖父母は心許せる存在でした。
そのときのお通夜の法話で、「亡くなった方は仏となっていつも見守っていてくださる」ということを聞いたんです。
でも最初その話を聞いたときは「え?」と違和感がありました。
なんとなくオカルト的な気がしたんです。
でもとても悲しかったので、もしそうならば、という気持で受け止めました。
そう考えていくと、「今ここで私が悲しんでいるのはおじいちゃんは嬉しいとは思っていないだろう」と思ったんですね。
「もっと前を向けよ」と言ってくれているんじゃないか。
そういうふうに思えたんです。
そのときに初めて、仏教は残された私たちのためにある教えなんだと実感しました。
そこから、お寺に生れたということは何かのお導きなんじゃないかと思って翌年、得度し僧侶になりました。
『かぐや姫の物語』のラストシーンは、姫が月に帰ってしまいます。
それを翁と媼、また有縁の人々が悲しんで見送り、そのまま終ってしまうんですね。
そこにハッピーエンドを思わせるようなものは何もありません。
この映画の話をいただいたときにも、この映画の最後のやり切れない別れのシーンを監督は、「悲しくても私たちはそれを引きずって生きていかなければいけないのです」とおっしゃっていました。
映画を見終わった方々が席を立つまでの間に心の整理をつける、心を慰めるような歌をお願いしますと言われて作ったのが「いのちの記憶」という曲です。
僧侶としておつとめをさせていただくときの気持ち、また1人の人間としてこれまで生きてきたさまざまなことに思いをはせながら、お腹の中にいる新しいいのちと一緒に3カ月かけてこの曲を作りました。
亡くなっていくいのち、また新たに誕生してくるいのち。
まさにいのちがめぐっていくということを実感できる時期に作った曲でもあり、私にとっても本当に大事1曲です。
今年は広島でも災害があり、多くのいのちが奪われて本当に悲しいです。
そんな中で、私たちは自然に対してもっと謙虚に生きていかなければいけないと思いますし、また普段から生かされて生きているということを大切にしたいです。
別れの悲しみもありますけれども、泣きながらも笑いながら生きていけたらと思っています。