ちょうど吉水(よしみず)の道場には、その朝、月輪禅閤(つきのわぜんこう)が訪れていて、上人(しょうにん)としばらく対談してから後、いつもの聴法の席へまじって、他の三百余の学生(がくしょう)たちと、上人の講義を聞いていたところであった。
「たいへんだ!」と、誰か、弾(はず)んだ声でいうのが講堂の外できこえる。
「今、十(じゅう)禅(ぜん)師(じ)の辻で、人々が、戦のように騒ぎ合っているので、何事かと行ってみたら、綽(しゃっ)空(くう)と玉日の前とが、この吉水へ参るとて、一(ひと)つ輦(くるま)に乗り、町を、華(は)でやかに打たせてきたので凡下どもは激昂(げっこう)し、ひきずり降ろせの、打ちのめせと、いやもう、乱暴狼藉(ろうぜき)、はやく、救いに行ってやらねば、ほんとに、あの二人は、これへ着くまでのあいだに、ぶち殺されてしまうかも知れぬぞ」
はらはらして禅房の者へ告げ廻るのであった。
しかし、屈竟(くっきょう)な者はほとんど皆、講堂のうちに粛然と膝をつめ合って上人の熱心な講義に耳を傾けているので、その声を聞いても、顔色を動かしただけで起つ者はなかった。
上人もまた、耳に入ったらしいが、それについて一言もいわなかった、月輪殿も、じっとしておられた。
「どうしたらよいだろう? ……一人や二人行ったところで、どうもならぬし」
二、三の者が門前でこうつぶやきながら、はらはらと眺めている間に、やがて泥土の戦場を駈け抜けてきたような糸毛(いとげの)輦(くるま)と、摩(ま)利支(りし)天(てん)のように硬(こわ)ばった顔をした、二人の勇者とが、その轅(ながえ)について、ぐわらぐわらとこなたへ曳いてくるのが見えた。
「おお!」
「無事に、見えられた」思わず、門前に立っていた者は手を挙げた。
綽空は、すぐ道場へ入った。
玉日も、その後に添って、良人と共に、そのまま講堂の中へ坐った。
朽(くち)葉(ば)色(いろ)の法衣(ころも)や、黒い法(ほう)衣(え)ばかりの中に、たった一人、彼女の装粧(よそおい)だけが眼ざめるほど鮮麗だった。
学生(がくしょう)たちの眼が、どうしてもそれへ動かされずにいなかった。
講義をしながら上人はそれを感じたであろう、粛然としていた中に、何となく、無言の動揺がながれ始めたのを。
しかし――。
綽空と玉日のふたりだけは、いかにも、安心そのものの象(かたち)であった、幸福そのものの相(すがた)だった。
他へ、何ら気の散ることなく、上人の講義の終るまで、心静かに、聴いていた。
その日の話は長かった。
講義が終ると、月輪殿はすぐ玉日を、上人の座下(ざか)へ連れて行って、紹介(ひきあ)わせた。
上人は、さも、満足そうに、
「おう……この女性(にょしょう)でおわすか」と、慈悲の眼をほそめて、玉日の姿へ見入った。
そして、独りうなずきながらまたいうのであった。
「まことに、仔(し)細(さい)なき坊(ぼう)守(もり)よな。綽空の望みも、これで一つとどいた。弘(ぐ)誓(ぜい)の海はまだ遠いが、本願の大船は、ひとまず、陸(おか)に浪(なみ)を憩うがよい……」
*「弘誓(ぐせい)」=仏教で、仏、菩薩が衆生(しゅじょう)の苦しみを救おうとする、広く大きな誓い。