親鸞 浄土(じょうど)万(まん)華(げ) 2015年3月22日

翌日も、若い夫婦(ふたり)は、きのうのように輦(くるま)で吉水の門へ通ってくる。

雨の日も、風のふく日も、それからは、一日とて怠る日のない綽空と玉日であった。

四百に近い諸弟子のうちで、この二人だけがいつも講堂で眼立った。

老いたる沙(しゃ)弥(み)たちは、

「健気なご精進よ」といったが、若い沙弥たちには、玉日の麗(うる)わしさと、綽空の幸福そうな落着きとが、とかく、眼に障(さわ)った。

うらやましいと思わずにいられなかった。

そして浄土門の教義をめいめいが、もう一遍(いっぺん)深刻な気持になって考え直し出したらしい容(よう)子(す)なのである。

「よいことだ」と、上人はいわれた。

また、ある時は、講義の壇から、上人はこういう意味のことも洩らされた。

「この中で、法(ほう)然房(ねんぼう)のことばを真に汲みとって、即座に、仏陀(みだ)の恩寵を感じ、この世をば、この肉眼で、万(まん)華(げ)の浄土と眺め得られるものは、おそらく、綽空とその妻とが、第一であろう」――と。

上人もまた、二人の境地を、心から羨(うらや)んでおられるのだった。

――もちろん、未熟な若い沙弥のそれとは違うが。

あああ、感謝。

綽空の心は今、感謝でいっぱいだった。

この幸福感こそ、念仏行者が、ひとたび、絶対の摂取(せっしゅ)にあずかるの時に、誰人(たれびと)でも、うけることのできる大悲の甘露なのである。

ただ、それを汲み得ないで、人は好んで、未だに、聖(しょう)道門(どうもん)の自戒や懐疑にさまようているだけなのだ。

日の出る朝には、岡崎の草庵を二人の輦(くるま)が出た、夕月のさしのぼる黄昏(たそが)れには、二人の輦が、吉水から帰った。

そうして、毎日、欠かすことなく道に見ているうちに、町の大衆は、もう、怪しまなくなってしまった。

二人の輦に行き会って頭(かしら)を下げる者はあっても、石を抛(ほう)る者はなくなってしまった。

「あのように円(まど)かに、夫婦(みょうと)が、一つ道を歩み、一つ唱名をして生活(くら)すことができたら、ほんに、幸福であろうに」

と、凡下たちも、自分たちの、歪(ゆが)んでいる家庭や、倦怠(けんたい)期(き)に入っている夫婦仲や、すさびかけている心をかえりみて、やがて、吉水の説教の日には、夫婦して打ち連れてくる者がにわかにそのころ殖(ふ)えてきたという。

しかしまた、浄土門を、呪(じゅ)詛(そ)する側の他宗の僧は、いっそう、彼を悪(あく)罵(ば)し、彼を嫉(そね)んだ。

わけても播(はり)磨(ま)房(ぼう)弁円は、

「末法だ、末法だ」と、人に会えば、必ずその人に向って、綽空のことを、悪(あ)しざまにいい、もしその者が綽空の弁護でもすれば、敵のように喰ってかかって、その者が、

「まったくだ! まったく貴公のいう通りだ」

と、うなずかなければ、承知しなかった。

今日も――輦の轍(わだち)に轢(ひ)かれて、尻尾を半分失った例の大犬の黒をつれて、五条の裏町のきたない酒(さ)売店(かや)の土間で、弁円が、そこの亭主を相手に、頻(しき)りと、悲憤をもらしていると、隅のほうで、さっきから黙ってちびりちびり飲んでいた野武士ていの男が、

「修験者どの」と、呼びかけた。

そして、

「なかなか、貴公はおもしろいことをいう男だ、一杯献(けん)じよう」

と、杯をほして、彼の方へつきだした。