「畜生っ」覚明は、かまれた脚をあげて、黒犬の顎(あご)を蹴った。
きゃんッ――悲鳴をあげて、熊野犬は、薄赤い腹を見せてころがったが、その尾の端へ、勢いよく廻っている輦(くるま)の轍(わだち)が乗ったので、さらに、ふた声ほど、鋭く啼(な)きたてて、横っ飛びに、群集の中へかくれこんだ。
そこに――その犬の逃げこんだ所に、一人の山伏の顔が見えた。
聖護院に籍(せき)を持つ播(はり)磨(ま)房(ぼう)弁円である。
さっきから、群集の中にまじって、煽動したり、自分も怒号したりしていたのであったが、黒が、血まみれになって、足もとへ帰ってきたのを見ると、もう、理性のささえを失ったように、
「この野郎ッ」喚(わめ)いて、輦(くるま)のそばへ、寄ってきたかと思うと、腕をのばして、藤色の縁(ふち)に朱の絹房(きぬふさ)の垂れているそこの簾(すだれ)を、ぱりっと、力にまかせて、引き千(ち)断(ぎ)った。
裂けた御簾(みす)の糸や竹が、蜘蛛(くも)の巣のように、弁円の兜(と)巾(きん)へかぶさった。
そして、輦のうちの綽空の横顔が、雲を払った月のように、鮮やかに彼の眼に映った。
積年の憎悪と、呪いとが、弁円の踵(くびす)の先から満身へ燃えあがった。
彼は、輦(くるま)のうちへ、唾(つば)を吐きかけて、早口に、
「堕地獄ッ」と、罵(ののし)り、
「それでも、貴様、人間か、僧侶かっ。なんの態(ざま)だっ、馬鹿っ、仏法千年の伝統を蹂躙(じゅうりん)する痴漢(しれもの)め! こうしてやる!」
杖を持ち直して、ふりかぶると、性善坊は後ろから組みついて、
「無礼者っ」
投げようとしたが、弁円も強(したた)かに反抗した。
かえって、性善坊のほうが危ないのである。
覚明はそれを見て、
「おのれ」と、弁円の肩を、鞭(むち)で打った。
輦(くるま)の上からその時初めてした綽空の声であった。
「――これっ、二人とも控えぬか」
「はっ……」
「他(わき)見(み)すな! 道ぐさすな!」
「轍(わだち)にかかる石、雑草にひとしいもの、それらに関(かま)うな、惑うな。
ゆくては、本願の彼(ひ)岸(がん)、波も打て、風もあたれ、ただ真(ま)澄(すみ)の碧空(あおぞら)へわれらの道は一すじぞと思うてすすめ、南無阿弥陀仏の御名号のほか、ものいう口はなしと思え。
石に打たるるも南無(なむ)阿弥陀(あみだ)仏(ぶつ)と答え唾(つば)さるるも南無阿弥陀仏と答えるがよい。
――見よやがて、この数万の大衆皆、それについて、南無阿弥陀仏を一音にとなえ奉る日のあることを!」
「笑わすな!」弁円が、ふたたび跳びかかろうとするのを振りすてて、
――なむあみだぶつ。
――なむあみだぶつ。
血にまみれた頭も拭(ぬぐ)わず、汗にまみれた顔も拭わず、性善坊と覚明は真(ひた)向(む)きに輦(くるま)をひき出した。
この声、この力、天地に響けとばかりに。
――なむあみだぶつ。
――なむあみだぶつ。