おうとも、否とも、綽空の答を待っている二人ではなかった。
轅(ながえ)の両側にわかれて、
「雑人、鞭を貸せ」覚明が、牛飼の鞭を奪って、百万の魔人もこの輦の前を阻(はば)めるものがあれば打ち払っても通らんと巨大な眼を瞋(いか)らすと、性善坊も、八瀬黒の牡(お)牛(うし)の手綱を確(しっ)乎(か)と把(にぎ)って、
「それっ、易(い)行(ぎょう)念仏門の先行者(せんぎょうしゃ)が行く手の道を邪(さまた)げして、あえなく、軌(わだち)にむだな生命(いのち)を落すなっ」と、叱咤しながら、むらがる弥次馬の影を打ちつつ、万丈の黄塵(ほこり)の中へ、むげに、ぐわらぐわらと輦(くるま)を押しすすめた。
大地を鳴りとどろかせて迫る軌(わだち)の音と、露はらいの二人の勢いに気押されて、群集は、足をみだしてわっと道をひらいたが、小石や、泥や、瓦のつぶては、悪戯(いたずら)から反抗へ、、反抗から激昂(げっこう)へと、かえって、険悪なものを孕(はら)んできて、
「何をッ、外道の眷族(けんぞく)めっ」
「通すなっ、その、穢(けが)れ車をッ――」
疾風(はやて)か、大魔群の征矢(そや)かのように、ばらばらと、輦の扇びさしや左右の簾(す)や、性善坊の肩や、綽空の膝の近くへも飛んできて、弾(はじ)き返(かえ)った。
ついきのうまで、深窓のほか、生きている社会とはどんなものか、近づいても見なかった玉日は、さすがに、この凄まじい人間の数が激昂したり、面白がったり、煽動したり、また、耳にするさえ顔の赤くなる猥褻(わいせつ)な言葉を平気で叫んだり――あらゆる能力をもつ大魔小魔を地へ降(お)ろしたかのごとく、それらの大衆が、自分の輦(くるま)一つへ向って、吠え、猛び、喰ってかかるのを眺めると、さすがに、女性(にょしょう)のたましいは、萎(な)えおののいてしまって、生ける心地もないらしいのであった。
じっと、俯(うつ)向(む)いたきりの顔は、紙のように白かった。
釵(さい)子(し)の光も、黒髪も、肩も、かすかに戦慄していて、そのまま、今にも失神して横に仆(たお)れはしまいかと危ぶまれる。
――玉日! そんなことでどうするかっ?
玉日は、誰かに、呼ばれたような気がしてはッと我れにもどった。
側にいる良人(おっと)の声ではなかった。
綽空は、岡崎の草庵を出た時からほとんど膝に組んでいる指一つうごかしていない。
ただ、濃い眉に、揺るがない信念をきっとすえているだけだ。
ここより後ろへは退(しりぞ)く大地を持たない唇をむすんで、輦(くるま)のまえの大衆に憑りうつッている大魔小魔の振舞いをながめているだけなのである。
そして、その結ばれたままの唇から、微かに、
――なむあみだぶつ。
なむあみだぶつ。
なむあみだぶつ。
玉日は、恐怖のあまり、いつの間にか、片時も離してはならないものから離れている自分に気がついた。
―なむあみだぶつ!
―なむあみだぶつ!
彼女も、良人と共に、一念に唱えた。
そう唱えると共に、ふしぎな力がわいて、彼女は、蒼白(まっしろ)に萎(な)えていた面(おもて)を、きりっと、真っ直に上げた。
自分の力でないようなものが、その貌(かお)を厳然とささえた。
わんッ! その時、犢(こうし)のような一匹の熊野犬が、いきなり、輦(くるま)の前に踊って鞭(むち)をあげた覚(かく)明(みょう)の脚へかみついた。