「善信御房――」
心蓮は、いぶかしげに、また訊ねて、
「軒からは、氷柱(つらら)が下がっているし、風は吹きさらすし、さような所であなたは、何を好んで誦(ず)経(きょう)しておられたのですか」
「実は、ある者の刃に趁(お)われて、逃げてきたのです」
「逃げるならば、叡福寺の僧房へでも、おかくれになればよいのに」
「僧房を騒がすのは気の毒でしたから。――それに皆、静かに眠っているところを驚かしてはと思うて」
「なるほど」
心蓮は心を衝(う)たれたように、
「危急迫って、自分の生命(いのち)が脅(おびや)かされる間際にも、あなたは、慈悲を忘れないお方とみえますな」
「――お恥しいことだ」
善信は微笑して、
「そんなつもりではありません。山伏の刃が恐くて、ただひた走りに、ここまで走ってきたに過ぎない。――そして、奇蹟のように危ないところを助かったのが、何かこう御(み)仏(ほとけ)の手でこれへ体を運ばれたような心地がして――有難さに、われを忘れて、経を誦(ず)していたものでございまする」
「一体、あの山伏は、何者ですか。何を怨みにふくんで、あなたを殺そうとしたのですか」
「さ……それをお話し申すには長いことになりますが、掻いつまんで申さば、心蓮どのも見かけたらしいあの山伏は、私が幼少からの学友で、今では聖(しょう)護(ご)院(いん)の印可をうけ、播(はり)磨(ま)房(ぼう)弁円と名乗っておる人物」
「弁円?……私もどこかでその名は聞いたような気がする。――して今夜は」
「私は、あの叡福寺の御葉(みは)山(やま)のふもとにある聖徳太子の御廟へ、ちと、心願がありまして、籠っていたのです」
「ふむ」
「すると、弁円が、いつの間にか私の背後に、抜刀(ぬきみ)をしのばせていたらしいのですが、すでに、その刃が私の頭(こうべ)に下ろうとした瞬間、アア今思い出しても奇蹟です――いや私にとって、慈父たり、恩師たり、母たり、常に心のうちで渇仰(かつごう)し奉る聖徳太子のお救いかもわかりません――その髪一すじの危機に迫った時、忽然(こつねん)と、弁円の開(あ)けて入った妻(つま)扉(ど)から中へ躍り込んできた一頭の黒犬があったのです」
「えっ?犬が」
「弁円の飼犬なのでしょう、一声、もの凄い声をあげて吠えました。驚いて振向いたので、私は初めて、私を殺そうとしている人間がすぐ後ろにいることを知ったのです。犬も、飼主に力を協(あわ)せて、私へ向ってかみついてくるのかと思っていますと、さはなくて、弁円の刃(やいば)を持っている腕へ武者ぶりついて離れないのです――私が辛(から)くも逃げることができたのは、その隙があったからで、思えばあの犬は、畜生とはいえ、怖ろしい殺害の罪を犯すところであった飼主をも、同時にその罪から救うたものといえまする」
「ほ……」
心蓮は、いよいよ心を衝(う)たれ、
「さても、ふしぎなこともあるものですな。その犬は、この先の雑木林の中に縛りつけられてあったのを、私が、縄を解いて放してやったのですが」
「あなたが?」
「そうです――私が」
「…………」
氷柱(つらら)の軒下に立ったまま、二人は黙然と、いつまでも顔を見合っていた。
眼に見えぬものの大きな力をこの宇宙に感じずにいられないもののように。
もし心蓮が、あの時、黒犬の縄を解いてやる気にならなかったら、善信は今ごろどうなったろうか。
二人は坐ってしまった。
御葉(みは)山(やま)の御(ご)廟(びょう)のほうへ向って、われを忘れて、数珠(ずず)の掌(て)をあわせ、仏の弟子である欣(よろこ)びに声を出して念仏していた。
ちかっと、朱(あか)い光が、御葉山の肩に映(さ)した。
夜が明けたのである。
――雲にも、野にも。
二人のうえの氷柱(つらら)の刃は、いつの間にか麗朗な珊(さん)瑚(ご)のすだれのように輝いていた。