「お願いの者にござります」
近づいて、心蓮が地上に額(ぬか)ずくと、紙(し)燭(そく)を持って、ちょうど橋廊(ろう)架(か)のうえを通りかけた寺僧が、
「――旅のお方か」と、下を覗いていう。
心蓮が、疲れを訴えて、一宿のおゆるしを賜れまいかと乞うと、
「はい、それは承知しましたが、ただ今、頻りに猛々しい犬の声がしたのは、貴僧の姿を見て、野良犬でも吠えたのですか」
「いえ、その犬ならば、今、当寺から駈け出して行った山伏の飼犬らしゅうございます」
「山伏が」
「さようです、刃(やいば)を持って」
「はてな?」
「恐い血相でござりました」
寺僧は、そう聞くと、あわてて奥へ駈けて行った。
盗賊が入ったのではあるまいかといい交わしつつにわかに人々が右往左往し始めた。
すると、太子廟のほうを見に行ったうちの一人が、
「こよい御(み)霊(たま)廟(や)に参籠していた善(ぜん)信(しん)御(ご)房(ぼう)(親鸞(しんらん))のすがたが見えませぬぞ」
と、告げ廻った。
さては何か、奇禍に罹(かか)られたのではあるまいかと、老僧までが先に立って、松明(たいまつ)を点(とも)させ、裏の御葉(みは)山(やま)へまで、その赤い灯が点々と登って、
「善信どの――。善信御房うっ……」と、呼び歩いた。
心蓮は心の裡(うち)で驚いていた。
善信というからには、都にある、法然上人の室(へや)にあって、共々に指示していた同門の綽空ではあるまいか。
つい昨年――建仁三年。
その人は、前(さき)の九条関白(かんぱく)家(け)――月輪禅閤(ぜんこう)の息女と結婚して、法門に未曾有(みぞう)な問題を起した人物である。
また、叡山をさって、吉水の念仏門に身を投じ、自力難行から他(た)力(りき)易(い)行(ぎょう)へ転向して、その折も、ごうごうと世上の輿(よ)論(ろん)に渦まかれた人でもある。
以前には、綽空といい、結婚して後、善信と名を改めたという風評も田舎(いなか)で耳にしたことがある。
「もしや……かの綽空なら」
心蓮は、急に、自分もじっとしていられない気持になり、そして胸噪(むなさわ)ぎに駆らるるまま、どこというあてもなく、叡(えい)福(ふく)寺(じ)の人々と共に探し歩いた。
「そうだ」彼は、山門を出て、街道のほうへ走ってみた。
さっき、山伏はこの道の方へ刃をさげて走ったのだ。
――綽空が難を避けて行ったとすれば、この道にちがいない。
だがもうその山伏の影も見えないし、黒犬の声も聞えなかった。
心蓮は、霜をふくむ風の中に、ただうろうろと立ち迷っていた。
寺へもどっても、この騒ぎに――また、自分と同じ師を持つ同門の者の不安をよそに、楽々と、眠るわけにはゆかない気がする。
心蓮は、背中を風に押されながら、風の行く方へただ歩みつづけた。
すると、どこからともなく、誦(ず)経(きょう)の声が聞えた。
耳のせいかとも思ったが、そうでもない。
「?……」
風に顔を反(そ)向(む)けて振向いた。
水車小屋がある。
水車は晒(さら)布(し)を掛けたように、氷りついて止まっていた。
その小屋の廂(ひさし)の下に人影が屈(かが)んでいるのだ、石のうえに腰かけて。
心蓮は、眼をみはった。
やはり自分と同じような貧しい法衣(ころも)の旅人である。
「もし……あなたはもしや、以前綽空といわれた善信御房ではありませぬか」
「そうです」
人影は、石から起って、いぶかしげに、
「そう仰っしゃるあなたは?」
「三年前に、上人からお暇(いとま)を賜って、笠(かさ)置(ぎ)の田舎(いなか)へかくれ込んだ心蓮です。――あなたとも半年ほど、吉水で共に暮らしたことのあるあの心蓮です」