山門は閉まっている。
心蓮は丘の下まで来て、
「はて、今ごろ、門をたたいても……」と、ためらっていた。
太子の御(み)霊(たま)を感じるので、その山は神々しかった。
しかし、もし魔が棲む山と見たなら、轟々(ごうごう)と鳴る暗い松風もものすごい形相(ぎょうそう)なのである。
「どんな所でもよいが――」
心蓮は寝どこが欲しかった。
ともかく、ここまで来たことである、訪れてみよう、そう考えて、崖の段を踏みかけた。
さっき――林の中で縄を解いてやった犬の声が――その時ふたたび遠い寺(じ)域(いき)の裏山で聞こえだした。
ぞっと、心蓮は背に水を浴びた。
その時の犬の声は、さっき、街道で耳をとめたそれよりは、いっそう陰惨な殺気さえおびている――一種異様な吠え方である。
しかも。
その犬の声は、恐ろしい迅さで、またこっちへ近づいてくるらしい。
それと共に、誰なのか、大股(おおまた)に幅ひろく駈けてくる人間の跫音も近づいてきた。
「盗賊か?」
咄(とっ)嗟(さ)には、そんな程度にしか想像できなかった。
心蓮は、大きな樫(かし)のうしろへ走りこんだ。
上の柵(さく)を破って、崖の竹むらへ飛び込んだ人間がある。
――一人なのだ。
手にキラと何か光ったものを心蓮はたしかに見た。
「畜生っ」
すさまじい怒りをふくんでいる男の声がすぐ側へ来て聞えた。
見ると、それは額(ひたい)に兜(と)巾(きん)をあてている山伏である。
けん!けんっ!黒犬は、山伏の袂(たもと)に――裾に――まるで死にもの狂いの慕い方をして、追い纏(まと)っているのである。
それを、腹立たしげに、
「うるせえっ」
山伏は、蹴った。
悲鳴を上げて、犬は腹を見せて仆れた、しかし、屈しないのだ、すぐにまた、かみつくように、山伏の後を追う。
「ぶッた斬るぞ」
ひっさげている直刃(すぐは)の戒刀を、山伏は、怒っている眼の上にふりかぶって見せた。
――それには、さすが血迷っている犬も怖れをなして、いと悲しげな声をあげて、尾を垂れて逃げすくむ。
「――みろっ、てめえが飛びこんできたおかげに、綽空の奴を、どこぞへ、逃がしてしまったじゃアねえか。おれを追うより、綽空をさがせ!今夜こそ、あいつの息のねを止めてしまわなければならねえ。――よッ黒犬(くろ)、おれを主人と思うなら、おれの狙う綽空を一緒にさがしてくれ」
しかし――犬に聞きわけのあろうはずもない。
犬はただ、浅ましい飼い主の血相をかなしみ、そして恐れるだけだった。
「――どこへ失(う)せやがったか?」
唇をかんで、山伏は、そこらを睨(ね)めまわして歩くのである。
心蓮は、たましいが竦(すく)んでしまった。
――見つかったら、人違いでもしかねまい。
逃げようか、じっとしていようか。
彼は、ひとりでに五体がぶるぶるふるえてくるのをどうしようもなかった。
「街道のようだな」
そのうちに、こうつぶやくと、山伏は引っさげ刀のまま、彼方へ韋駄(いだ)天(てん)のように走り去ってしまった。
もちろん、黒犬(くろ)もその後について――心蓮は、ほっとした。
われに返ってくると、冷たい汗が腋(わき)の下をぬらしていた。
ふたたび戻ってこないものでもない、今のうちだ。
彼は、崖を駈け上がった。
そして山伏が破って出た柵(さく)の間から寺内へ入ってみると、ここは、寂(じゃく)として樹海の底に沈んでいる真夜中の伽(が)藍(らん)が眼にうつるだけなのである。
「お、誰か起きている」
心蓮は、奥ふかい堂の渡り廊下に、一つの小さい燈火が流れてくるのを眼にとめた。
*「直刃(すぐは)」=日本刀の刃紋の一つで、直線的な刀紋のこと。