冴(さ)え返った春先の夜である。
月明かりは雪のように白かった、樹々の細い枝は水晶を思わせる。
「オオ寒……」
心(しん)蓮(れん)は、立ちすくんだ。
八寒の底から吹いてくるような風が、裾(すそ)を払(はら)って、河内(かわち)街道の彼方(かなた)へひゅうと翔(か)けてゆく。
昼間は、もう草(くさ)萌(も)えの温(ぬく)む土、温(ぬる)む水に、春の肌心地を感じるので、油断して、薄着のまま出てきたが、夜になると、急に棘(とげ)のある空気が、風邪(かぜ)心(ごこ)地(ち)の肌を寒(さむ)気(け)立(だ)てる。
心蓮は、水洟(みずばな)をこすって、
「宿をとればよかった……」と、悔いを洩らした。
一日も早く帰りたい――師の房の顔を見たい――友の声も浴びたい――と矢も楯(たて)もなく立ってきた彼の気持が、この深夜をも、ひた向きに、京へと足を急がせてきたのであったが、無理だった、体に微熱があるせいか、脚がだるい、鼻のしんが風に痛む――
立ちどまれば、風は、裾を吹いて、よけいに悪(お)寒(かん)がしてくるし、果ては、坐ってしまいたくさえなる。
わんッ、わんッ――どこかで、猛々しい犬の声がした。
静寂(しじま)をつんざいて、幾声もつづく。
「おや?」
凡(ただ)の犬の声とも思えないのである。
畜生の吠えるうちにも喜怒哀楽はあるものだ。
心蓮は、釘を打ちこまれたように、犬の傷(いた)む心を、共に傷んだ。
「――この林には、家も見えぬが?」
彼は疎(そ)林(りん)の中へ入って行った。
まだ葉を持たない痩せた雑木が、どこまで行っても、同じような密度と芝地の肌を見せてくる。
がさ、がさと、心蓮の足に、落葉が踏まれてゆくのが、敏感な動物に、人間を感じさせたものとみえ、やがて不意に間近な樹蔭から、
――わ、わ、わんッ!
発狂しているような犬の声が猛り立った。
「オオ」心蓮は、恐(こわ)かった。
しかし――不(ふ)愍(びん)さに捨てては逃げられなかった。
そこの一つの樹の根に、荒縄で縛(しば)りつけられている大きな黒犬は喉(のど)から断(き)られてしまいそうに首を長く伸ばして、ほとんど、飛び出しそうな眼を、心蓮の影へ向けているのだ、訴えているのだ、何とも、言語のある人間には表情のできないような表情を必死に示して――
「どうしたのだ、百姓の子でも、咬み殺したのか、おまえは……」
心蓮は、恐々(こわごわ)、寄って行った、黒犬の体は、狂いに狂っていたためであろう、自分の血でよごれていた。
それを摺(す)りつけて、犬は、心蓮にからみついてくる――。
眼やにをもって、そして、血ばしった眼に、涙のようなものをもって。
「待て。――これっ、そうからんでは、解(と)いてやることもできないではないか。離せ、お離し……」
やっと、振りもいで、木の根の縄を解いてやったのである。
すると犬は躍ってよろこんだ、狂喜というのはこういう態(てい)であろうと心蓮は眺めていた。
突然、黒犬は、征矢(そや)みたいに駈け出した。
「あっ……」と、呆れてながめている間に、もうその影は、灌(かん)木(ぼく)の下を突き切って、街道へ出たかと思うと、いっさんに、彼方(あなた)の丘へ向って飛んでいた。
丘には、松が多く見える。
そして初めて心蓮も気づいたのである。
そこに、チラと灯がまたたいていることを。
「お……あの山門は磯(し)長(なが)の叡福寺ではないか。――そうだ、聖徳太子の御(ご)廟(びょう)のある……」
彼は、犬の後から、遥かに遅い脚で、その灯をあてに歩だした。