親鸞 法敵編 氷柱(つらら)の下(もと) 2015年4月7日

冴(さ)え返った春先の夜である。

月明かりは雪のように白かった、樹々の細い枝は水晶を思わせる。

「オオ寒……」

心(しん)蓮(れん)は、立ちすくんだ。

八寒の底から吹いてくるような風が、裾(すそ)を払(はら)って、河内(かわち)街道の彼方(かなた)へひゅうと翔(か)けてゆく。

昼間は、もう草(くさ)萌(も)えの温(ぬく)む土、温(ぬる)む水に、春の肌心地を感じるので、油断して、薄着のまま出てきたが、夜になると、急に棘(とげ)のある空気が、風邪(かぜ)心(ごこ)地(ち)の肌を寒(さむ)気(け)立(だ)てる。

心蓮は、水洟(みずばな)をこすって、

「宿をとればよかった……」と、悔いを洩らした。

一日も早く帰りたい――師の房の顔を見たい――友の声も浴びたい――と矢も楯(たて)もなく立ってきた彼の気持が、この深夜をも、ひた向きに、京へと足を急がせてきたのであったが、無理だった、体に微熱があるせいか、脚がだるい、鼻のしんが風に痛む――

立ちどまれば、風は、裾を吹いて、よけいに悪(お)寒(かん)がしてくるし、果ては、坐ってしまいたくさえなる。

わんッ、わんッ――どこかで、猛々しい犬の声がした。

静寂(しじま)をつんざいて、幾声もつづく。

「おや?」

凡(ただ)の犬の声とも思えないのである。

畜生の吠えるうちにも喜怒哀楽はあるものだ。

心蓮は、釘を打ちこまれたように、犬の傷(いた)む心を、共に傷んだ。

「――この林には、家も見えぬが?」

彼は疎(そ)林(りん)の中へ入って行った。

まだ葉を持たない痩せた雑木が、どこまで行っても、同じような密度と芝地の肌を見せてくる。

がさ、がさと、心蓮の足に、落葉が踏まれてゆくのが、敏感な動物に、人間を感じさせたものとみえ、やがて不意に間近な樹蔭から、

――わ、わ、わんッ!

発狂しているような犬の声が猛り立った。

「オオ」心蓮は、恐(こわ)かった。

しかし――不(ふ)愍(びん)さに捨てては逃げられなかった。

そこの一つの樹の根に、荒縄で縛(しば)りつけられている大きな黒犬は喉(のど)から断(き)られてしまいそうに首を長く伸ばして、ほとんど、飛び出しそうな眼を、心蓮の影へ向けているのだ、訴えているのだ、何とも、言語のある人間には表情のできないような表情を必死に示して――

「どうしたのだ、百姓の子でも、咬み殺したのか、おまえは……」

心蓮は、恐々(こわごわ)、寄って行った、黒犬の体は、狂いに狂っていたためであろう、自分の血でよごれていた。

それを摺(す)りつけて、犬は、心蓮にからみついてくる――。

眼やにをもって、そして、血ばしった眼に、涙のようなものをもって。

「待て。――これっ、そうからんでは、解(と)いてやることもできないではないか。離せ、お離し……」

やっと、振りもいで、木の根の縄を解いてやったのである。

すると犬は躍ってよろこんだ、狂喜というのはこういう態(てい)であろうと心蓮は眺めていた。

突然、黒犬は、征矢(そや)みたいに駈け出した。

「あっ……」と、呆れてながめている間に、もうその影は、灌(かん)木(ぼく)の下を突き切って、街道へ出たかと思うと、いっさんに、彼方(あなた)の丘へ向って飛んでいた。

丘には、松が多く見える。

そして初めて心蓮も気づいたのである。

そこに、チラと灯がまたたいていることを。

「お……あの山門は磯(し)長(なが)の叡福寺ではないか。――そうだ、聖徳太子の御(ご)廟(びょう)のある……」

彼は、犬の後から、遥かに遅い脚で、その灯をあてに歩だした。