まだ春は浅い、月は若い、肌寒い初(しょ)更(こう)なのである。
山清水の溜(たまり)井(い)に垢離(こり)をとって、白い下着に、墨の法衣(ころも)をつけ、綽空は、叡福寺の厨(くりや)から紙(かみ)燈(とう)芯(しん)を一つもらって、奥の御(み)霊(たま)廟(や)へ一人すすんで行った。
寂(じゃく)とした窟(いわあな)、その前の荒れ果てた、一(いち)宇(う)の堂、昔ながらである、何もかも、ここだけは変っていない。
「アア!」思わず出た真実の息である、永い旅のさすらいから戻ってきた人間の子が、心の故郷(ふるさと)へ立ち帰った時の感激にも似ている。
綽空は、胸の底から湧き出た声と一緒に、廟前(びょうぜん)の床にひれ伏していた。
日域ハ大乗相応ノ地
諦(アキラカ)ニ聴ケ諦ニ聴ケ我(ワガ)教令ヲ
今も耳にある。
十九の冬、この床に骨ばかりの身を坐らせて、七日七夜の祈念のうちに、夢ともなく、太子のおん姿を見、そして、壁に見出した御(ご)告(こく)命(みょう)の文字を。
汝ノ命根応(マサ)ニ二十余歳ナルベシ
命(メイ)終ッテ速(スミヤカ)ニ清浄(ショウジョウ)土(ド)ニ入レ善(ゼン)信(シン)善信、真ノ菩(ボ)薩(サツ)
「おそろしいほどです。御告命に違いなく、範宴は死し、綽空は生れました。ああ、綽空はここに生れました。ひとえに、太子の御宏徳によるところです。今の私の法悦は喩(たとう)るものもありません。そうです、お礼に参籠した今宵を記念(しるし)として、ただ今からは御告命の二字をいただいて、善信と名乗ることにいたしまする。
善信、善信、今の私はさながらその二字の相(すがた)に現わされておりまする」
自分の歓びは、太子の歓びである。
綽空は、信じて疑わない。
その歓びを、どういい現わそうか。
更けてゆく夜も忘れて、綽空は――いや善信は、紙(し)燭(そく)を寄せて、懐紙に何やら筆を染めていたが、やがて、わきあがる感激を抑えようもなく、無我の声を、朗々と張りあげて、みずから書いた懐紙の讃(さん)歌(か)を唱えていた。
仏智不思議の誓願を
聖徳(しょうとく)皇(こう)のめぐみにて
正定衆(しょうじょうしゅ)に帰入して
補(ふ)処(しょ)の弥(み)勒(ろく)の如くなり
救世(ぐせ)観音大(だい)菩(ぼ)薩(さつ)
聖徳皇と示現して
多々(たた)の如く捨てずして
阿摩(あま)の如くに添い給う
……みりっと、後ろの床が歯ぎしりをするようにその時鳴った。
身軽に扮(いで)装(た)った播磨房弁円が、研ぎすました戒刀を背なかに潜(ひそ)め、軒から洩れる月影を避けながら、そろ、そろ、と這いすすんでくるのであった。
大慈救世(ぐせ)の聖徳皇
父の如くに在します
大悲救世(ぐせ)の観世音
母のごとくに在します
……自作の讃歌をうとうていながら、善信の頬に白い涙のすじが止めどなく流れていた。
随喜の甘い涙である。
その歓涙に瞼(まぶた)は霞んで、御(み)霊(たま)廟(や)の龕(がん)は、虹のような光をぽっと滲(にじ)ませ、あたりには、馥郁(ふくいく)と、蓮華(れんげ)が舞う心地がし、その寂光万(まん)華(げ)の燦(かが)やきの裡に、微笑したもう太子三尊のおん姿が見え、亡母の吉光御前や、妻の玉日も、その辺りに在るような心地がして、ありがたさに、われをも忘れて声をあげて、
和国教主の聖徳皇
広大恩徳謝(しゃ)しがたし
一心に帰(き)命(みょう)したてまつり
奉讃不退ならしめよ!
――刻、刻、刻、一瞬の時を刻(きざ)んで、彼のうしろには、鋭い刃が近づいていたのである。
深沈と、夜は更(ふ)け、灯は白く、どこかで遠く、飢(う)えた野犬の声がきこえる。