迷ってはいたものの、
(人の一命)と考えると、玉日は、捨てておかれない気がして、
「どこにおりますか、その者は」
「血にまみれておりますゆえ、輦(くるま)小舎(ごや)へ入れました」
「行ってみましょう」
「ええご自身で?」
性善坊は、それまでには及ばないという顔を示したが、彼女はもう先へ歩いていた。
牛小屋の隣である、そこには糸毛(いとげの)輦(くるま)が雨にかからないように囲いのうちへ入れてあった。
近づいて行くと、呻(うめ)きが聞えた、怪我(けが)人(にん)の実性(じっしょう)は、むしろの上に横たわって、苦悶しているらしかった。
「ああ裏方さま」
側に黙然(もくねん)と付いていた覚明が彼女のすがたを見てこうつぶやいた。
性善坊のかざす紙(し)燭(そく)の下に、実性の傷の程度を眺めて、彼女は眉をひそめた。
(助かるかしら)すぐそう思われるほどな重傷なのである。
片脚の足首は柘(ざく)榴(ろ)のように割れているし、顔の半分は樽(たる)みたいに腫(は)れあがっているのだった。
「神酒(みき)を持ってきてください。それから、薬、布(ぬの)――」
彼女は、そういうと、もう事情とか、この草庵の立場とか、そんな前後のことなど考えていられなかった。
覚明は、ためらって、
「さ、酒はあるか」
と性善坊へ計っている。
「あろうも知れぬが……」
「いそいで下さい」
玉日に急(せ)かれて、
「はい」と納屋(なや)へ駈けて行った。
やがて、それらの品が来ると、彼女は、性善坊や覚明さえ手の下しかねるほどな不気味な傷口を洗ってやった、足や腕や、数ヵ所の繃帯(ほうたい)をも、懇ろに巻いて与えた。
そして、夜具を運ばせ、
「薬湯(やくとう)を煎(せん)じてやったがよい。朝になったら、粥(かゆ)なりと与えて」
と、細々(こまごま)、手当をいいつけて出て行った。
やや人心地のついた実性は、それが、裏方の君であったと後で聞かされて、
「勿体ない」と、わら蒲団のうちで、合掌していた。
気が落着くと、彼は一時、そこの輦(くるま)小舎(ごや)のうちでスヤスヤ眠ったらしいが、夜が明けてから覚明が粥を持って行ってやると、充血した眼をにぶく開いて、
「粥?……ですか……いりません、食べられません」
顔を振っていい張るのである、それでも無理に食べさせようとすると、彼は、大熱のあるらしい乾いた唇からさけんだ。
「……駄目です、いただいても無駄です、私はもう助からない、死がそこに見えている」
うわ言のようにいって、かたく眼を閉じたと思うと、その眼から一(ひと)しずく涙のようなものを流して、
「――この草庵の主(あるじ)、善信御房はまだ旅からお帰りになりませんか。わたしは、善信御房にお会いして、告げなければならないことがあるんです。……おう、おう、吉水禅房はどうなりましょう……。このままに、手をこまねいていたら、叡山や南都の法敵のために、上人のお身も気づかわれます。せっかく、築きあげてきた浄土門の寂土は、あいつらのために、踏みあらされてしまうに決まっている……。私は、善信御房にひと目会って、私がさぐってきた叡山の様子をお告げしたい……それから死にたいのです……善信御房は、まだお帰りになりませんか」
*「寂土(じゃくど)」=寂光浄土、寂光土ともいい、常寂光土の略。仏教で天台四土の一つ。法身仏のいる浄土。衆生が解脱して究竟の悟りに達したところ。