親鸞 風やまず 2015年7月10日

近ごろは健康もすぐれず、吉水禅房の一室に閉じこもって、めったに庭先の土も踏まない法然であったが、彼にはなにもかも分っていた。

(捨てておけない)と感じたのが、つい二、三日前のことであった。

「信(しん)空(くう)、筆を執って賜(た)も」

高弟の法(ほう)蓮房(れんぼう)信(しん)空(くう)が、

「はっ、何事を」

「わしの申すままを」

と、法然はしばらく眼を閉じていたが、やがて――

敬(ウヤマ)ッテ当寺住持(ジュウジ)三宝

護法前神ノ宝前ニ投ズ

と低い声で口述し初めた。

信空は、上人の唇から、糸を吐くように出る文言(もんごん)をそのまま筆写して行った。

かなり長文であった。

「……しばらく」

と、信空は、上人の息もつかせない口述を待ってもらって、そっと懐紙を出して、涙を拭いた。

写してゆくうちに涙が出て、ともすると、紙の上へ落涙しそうになるのだった。

怺(こら)えても、怺(こら)えても、泣かずにいられない言葉なのであった。

それは、上人が、叡山の大衆に対して、誤解をとくために送ろうとするものであった。

言々、血涙の声だった。

ひたすらに、自己を責め、自己の不徳のいたすところであると上人はいっている。

同時に、念仏門の真意は決して、とかくに臆測され、疑われ、邪視されているようなものではなく、浄土の行(ぎょう)のほかに何らの他意のないことも縷々(るる)として述べている。

なお、他(ほか)に、七箇条の起(き)請(しょう)文(もん)を書かせて、翌る日、

「火急のことあり、禅房までお越し候え」

と、門下のすべての者へ、使いをやって、告げた。

「何事」と、朝から、続々と、禅房の門には人々が集まってきた。

上人は、前の日、認(したた)めさせた起請文を一同へ示して、

「法然と同心の者は、これへ、連判(れんぱん)なされたい」といった。

ある者は、一読して、

「これは叡山に対する降伏状にひとしいものではないか」

と蔭へ来て、無念そうな唇をかんだ。

ある者は、また、

「あまりなご謙譲だ」

と、壁の隅へ来て、落涙するものもあった。

七箇条の誓文と、叡山へ送る一文には、法敵を責めている論争は一つもない。

ただもう自己の謹慎(きんしん)を述べて、彼の疑いを一掃しようとするものであった。

人々が、残念がるのもむりはなかった。

けれど、それも上人の気持とあればぜひがない、順々に、門弟たちは署名して行った。

そして、三日のあいだに、百九十名がそれに書かれたのである。

岡崎の草庵から駈けつけた善信も、もちろん、そのうちに連判していた。

それが叡山に届けられ、大講堂で今日読み上げられたのである。

山門の大衆は(われ勝てり)と凱歌をあげ、

「ざまを見ろ」と、降伏者を見(み)下(くだ)すように、誇りきった。

*「三宝(さんぽう)」=仏教で、仏(悟りを開いた教主)と法(その教え)と僧(教えに従って修行する者の集まり)との三つ。

*「宝前(ほうぜん)」=「神仏の前」をいう敬語。