近ごろは健康もすぐれず、吉水禅房の一室に閉じこもって、めったに庭先の土も踏まない法然であったが、彼にはなにもかも分っていた。
(捨てておけない)と感じたのが、つい二、三日前のことであった。
「信(しん)空(くう)、筆を執って賜(た)も」
高弟の法(ほう)蓮房(れんぼう)信(しん)空(くう)が、
「はっ、何事を」
「わしの申すままを」
と、法然はしばらく眼を閉じていたが、やがて――
敬(ウヤマ)ッテ当寺住持(ジュウジ)三宝
護法前神ノ宝前ニ投ズ
と低い声で口述し初めた。
信空は、上人の唇から、糸を吐くように出る文言(もんごん)をそのまま筆写して行った。
かなり長文であった。
「……しばらく」
と、信空は、上人の息もつかせない口述を待ってもらって、そっと懐紙を出して、涙を拭いた。
写してゆくうちに涙が出て、ともすると、紙の上へ落涙しそうになるのだった。
怺(こら)えても、怺(こら)えても、泣かずにいられない言葉なのであった。
それは、上人が、叡山の大衆に対して、誤解をとくために送ろうとするものであった。
言々、血涙の声だった。
ひたすらに、自己を責め、自己の不徳のいたすところであると上人はいっている。
同時に、念仏門の真意は決して、とかくに臆測され、疑われ、邪視されているようなものではなく、浄土の行(ぎょう)のほかに何らの他意のないことも縷々(るる)として述べている。
なお、他(ほか)に、七箇条の起(き)請(しょう)文(もん)を書かせて、翌る日、
「火急のことあり、禅房までお越し候え」
と、門下のすべての者へ、使いをやって、告げた。
「何事」と、朝から、続々と、禅房の門には人々が集まってきた。
上人は、前の日、認(したた)めさせた起請文を一同へ示して、
「法然と同心の者は、これへ、連判(れんぱん)なされたい」といった。
ある者は、一読して、
「これは叡山に対する降伏状にひとしいものではないか」
と蔭へ来て、無念そうな唇をかんだ。
ある者は、また、
「あまりなご謙譲だ」
と、壁の隅へ来て、落涙するものもあった。
七箇条の誓文と、叡山へ送る一文には、法敵を責めている論争は一つもない。
ただもう自己の謹慎(きんしん)を述べて、彼の疑いを一掃しようとするものであった。
人々が、残念がるのもむりはなかった。
けれど、それも上人の気持とあればぜひがない、順々に、門弟たちは署名して行った。
そして、三日のあいだに、百九十名がそれに書かれたのである。
岡崎の草庵から駈けつけた善信も、もちろん、そのうちに連判していた。
それが叡山に届けられ、大講堂で今日読み上げられたのである。
山門の大衆は(われ勝てり)と凱歌をあげ、
「ざまを見ろ」と、降伏者を見(み)下(くだ)すように、誇りきった。
*「三宝(さんぽう)」=仏教で、仏(悟りを開いた教主)と法(その教え)と僧(教えに従って修行する者の集まり)との三つ。
*「宝前(ほうぜん)」=「神仏の前」をいう敬語。