叡山の大衆(だいしゅ)は、その後、
(吉水は降伏した)と、例の法然とその門下の名をつらねた七箇条の誓書に、凱歌をあげていたが、
(あれは、奴らの戦術だぞ)という者があり、また、
(吉水の念仏者たちは、いよいよ結束して、信仰をかためているし、外部の門徒たちも、なお殖えるような勢いにある)と聞くと、
(それは捨ておけぬ)ふたたび持ち前の嫉視を向け、弾圧、迫害、誹(ひ)謗(ぼう)、あらゆる反動を煽(あお)って、とうとう、朝廷へ向って「念仏停(ちょう)止(じ)」の訴えを起した。
一方――栂尾(とがのお)の明(みょう)慧(え)上人が、学理の上から、法然の「選択(せんじゃく)本願念仏集」やその他の教理を反駁して、大きな輿(よ)論(ろ)を学界によび起しているので、
(今だ)
(この図(ず)に乗って、打(ぶ)っ倒せ)と、呼応して出た形もある。
社会の眼もまた、
(いよいよ念仏門の受難が来た)と、吉水禅房の無事を危ぶんで、どうなることかと、不安な予感を抱いて、この大きな二大思潮の正面衝突をながめていた。
事実――吉水のうちの頼もしげな高足たちの間にすら、徐々と、その動揺を受ける者があって、
「近ごろは、誰の顔が少しも見えんが」
と囁(ささや)き合っていると、その囁きをなした者が、翌る日は、
「しばらく、郷里へ帰って、故山で信仰と勉学にいそしみたいと思いますが」
とか、
「国元(くにもと)の老いたる親どもが、にわかに、病気の由(よし)ゆえ」
とか、口実を構えて、吉水を去ってゆくものが、日に幾人かずつ出てくるような有様であった。
ことに、信不退、行不退の二つの座に試みられ、その信仰の浅くて晦(くら)いことを曝(ばく)露(ろ)された人々のうちには、ひそかに、不快とする者もあって、理由も告げず、だんだんに、足の遠(とお)退(の)いた者もある。
そういう状態にある吉水へ、さらにまた、一方から不意な法敵があらわれて、
(邪教をつぶせ)と、波瀾のうえに、波瀾をあげてきた一派がある。
奈良の興福寺の衆徒と、その衆徒が、当代の生き仏と仰いでいる、笠(かさ)置(ぎ)の解(げ)脱上(だつしょう)人(にん)とであった。
興福寺奏状(そうじょう)という一文を草して、表(ひょう)を朝廷にさし出し、つぶさに、吉水の罪状というものをかぞえ上げたものである。
その罪状は、九箇条になっていて、第一、邪教をいい立つるの罪から筆を起し、
――新像図を私(し)版(はん)するの罪(摂取(せっしゅ)不(ふ)捨(しゃ)の曼(まん)荼(だ)羅(ら))
――釈尊を軽んずるの罪
――万善を廃するの罪
――神霊に背(そむ)くの罪
――国家を壊乱(かいらん)するの罪
等、等、かぞえ立てて、その一箇条ごとに、解脱上人がつぶさな意見を誌(しる)し、全文をもって痛烈な念仏撲滅論(ぼくめつろん)としたものであった。
吉水は今や、文字通りな四(し)面(めん)楚歌(そか)であった。
叡山は、権力の上から。
高雄は、学理の上から。
そして今は、奈良の衆僧が、
念仏門の教化とその手段
というものの上から、難を拾いあげて、徹底的に、吉水へ向って、最後のとどめを刺そうとしてきたのであった。
*「摂取不捨(せっしゅふしゃ)」=阿弥陀仏の光明(智慧・慈悲)が、念仏の衆生を救いとって捨てぬこと。