――だが、しかし。
一方に、打倒念仏の猛運動が起れば、一方にもまた、念仏の支持者も社会に少なくはなかった。
「吉水の上人は、何を聞いても、よそごとのように聞き流しておられるが」
と、心痛している人々が、意外なところに多かった。
わけても、朝廷には今、叡山の訴状が出ているし、南都の衆僧からも、念仏悪の罪状をかぞえて、その弾圧を、廟(びょう)議(ぎ)に建言している際なので、
(この両方の訴えを、取り上げたものか否か)という問題は、毎日のように、堂上の朝(あ)臣(そん)たちの政議にのぼっていた。
京極(きょうごく)摂政師(せっしょうもろ)実(ざね)の孫――大(おお)炊(い)御(み)門(かど)経宗(つねむね)とか、花山院の左大臣兼(かね)雅(まさ)とか、京極大夫隆信とか、民(みん)部(ぶ)卿(きょう)範光(のりみつ)、兵(ひょう)部(ぶ)卿(きょう)基経(もとつね)などという人々は、日ごろから、法然に帰依している人たちであるしまた政治的にも、
「言論の上ならばともかく、ただ新しい宗教を排斥するための強(ごう)訴(そ)や誹(ひ)謗(ぼう)は、これを御政治にとりあげて、軽率に、主権の御発動を仰ぐべきでない」
という意見を持って、廟議にのぞんでいた。
もちろん、ここにも、叡山に加担する公(くげ)卿や、南都の云い分や、明(みょう)慧(え)上人の学説に共鳴する者は少なくないので、二つの思潮は、二つの政治的な分野にもわかれ、いつも、激論に終ってしまった。
こうして、廟議の方針が、にわかに一決しないのを見ると叡山は、
(念仏方の公卿たちの策謀を、まず先に打ち懲(こら)せ)と、いつもの手段に出て、近いうちに、日吉(ひえ)、山王の神輿(みこし)をかついで一山三千が示威運動に出るらしいという警報が都へ入ってきた。
山門の強(ごう)訴(そ)といえば、いつも血を見るか、または、なにか社会的な大事件の口火になるのが例であった。
「すわ」と、堂上にも、そのうわさに、脅(おびや)かされる色があった。
しかし、念仏支持の公卿は、
「叡山の態度こそ、怪(け)しからぬものである。吉水の法然と、それとを比較すれば、いずれが、仏者として正しいか、瞭(あきら)かではないか」
と、かえって硬化して、廟(びょう)議(ぎ)は、いっそう激越になり、二派の対抗は、政治から感情へまで尖(とが)り合ってきた。
こういう険悪な成行きをながめて――
「困ったものだ」
誰よりも、ひそかに、胸を傷めていたのは、前(さき)の関白月輪禅閤(つきのわぜんこう)であった。
彼は今はもう、まったく、政界からも、廟堂(びょうどう)の権勢からも、身を退(ひ)いて、ただ法然門下の一帰依(きえ)者(しゃ)として、しずかに、余生を送っている人であったが、現在、自分の息女の一人は、善信の妻として嫁いでいるし、弟の慈円僧正は、叡山の座主であったが、その座主にもいたたまれないで下山しているのだ。
「なんとか、和解の途(みち)はないものだろうか」
禅閤は、自分の力で、この大きな対立の調停ができるものなら、どんな骨を折ってもよい、老い先のない身を終っても忌(いと)わないと考えていた。
で――高雄の明慧上人へ、ぜひ一度、個人的に会って談合姿態が――と使いをもって申し送ると、明慧からも、承諾の旨をいってきた。
「かの上人ならば」
と、禅閤は、一(いち)縷(る)の望みを抱いて、今の大きな危機を、自分の信念と誠意をもって、未然に、打開できれば、それはただ吉水の門派や一箇の法然の幸いであるばかりでなく、社会不安の一掃であり、また、一般の法燈のためにもよろこぶことだと信じていた。
ところが――意外な大事件が、誰も考えていないところから突発した。
――まったく、吉水でも、その法敵でも、夢想もしていなかった社会の裏面から、それは燃えひろがった魔火(まび)であった。