「ひどい奴だ」
頭の上の戸が閉まったので、彼は床下でほっとしながらつぶやいた。
「……坊主め」
そんな些細(ささい)な――偶然なことにも――彼の眼は遺恨をふくむのだった。
「――見ていやがれ、間もなく、この吉水の禅房も、ぺしゃんこにしてくれるから」
嬰児(あかご)の泣き声がするようでは、この一棟の房にこそ、女人がいるに違いないと、彼は、根気よく、耳をすましていたが、時おり、床下へ洩れてくる人声や跫音(あしおと)は男のものであって、女のいるらしい気配はなかった。
「では、他の室かな?……。そうだ、あんな大事件を惹き起した内裏の女だ。うかつな所へ起き臥しさせておく気づかいはない。もっと、誰にも気づかれないような密室だろう」
真冬の暗い風がふき抜けるので、床下は、身が硬(こわ)ばるほど寒かった。
古い鉋屑(かんなくず)が水気をふくんで溜っていた。
天城四郎は、蟇(がま)のように四つ這いになって、奥へ奥へと這いすすんで行きながら、
「わずかな恩賞の金では割に合わねえ仕事だぞ」と、思った。
だが、その恩賞の金よりも、彼には、露悪的な興味があり、この念仏門という大きな
勢力の崩壊を、他人の火事のように傍らから見る楽しみのほうが大きかった。
「あ……。誰か、起きているな」
ふと、縁の隙間から洩れている針ほどな細い灯影(ほかげ)を見つけた。
四郎は用心ぶかく、それを見つめて、しばらくは、近づかなかった。
――と、どこかで、
な、む、あ、み、だ、仏(ぶつ)
な、ま、み、だ、仏
な、ま、み、だ
なまみだ
念仏の声が地底から湧くように起ってきた。
非常に大勢の声のように思えたが、それはただ一人の唱名(しょうみょう)であった。
「誰だ、今ごろ」
四郎は、いぶかった。
「金にもならねえものを、この寒い真夜半(まよなか)に、何で、ぶつぶつあんな文句を称(とな)えていやがるのか……。世の中にゃあ、酔狂な野郎もある」
奥へすすむには、どうしても、その唱名の声のする下を這って行かなければならなかった。
四郎は、念仏がやむのを待っていた。
すぐやめてしまうだろうと思っていたのである。
――だが、深々と、更ければ更けるほど、その唱名には、熱と、無我の信力が加わって、やがて夜が白みかけても、容易にやみそうな様子も見えなかった。
(何も、待っていることはねえのに!)と、彼は自分でも思うのであったが、何となく、その音声(おんじょう)には、天井でも床下でも、十万の暗闇を見破っている人間の五韻(ごいん)が感じられて、その人間のいるすぐ下を通ることが、危険に思われてならないのであった。
「ばかな!」
と、彼は、自分のそうした観念を、時によって生じた理由のない気怯(おく)れと自嘲して、ずかずかと、這い出した。
そこはまた、一段、床が低くなっているので這いにくかった。
何か、竹の竿みたいな物に、膝をかけたのであろう、ばりっと、細竹の折れるような音がした。
「?……」
すると、頭の上の念仏の声が、ぴたと止んだ。