幕末、国内のことだけに目を向けていると、薩摩の動きは分かりにくいです。
当初、薩摩藩は幕府側について、幕府を助けて、長州藩と戦っていたのに、それが、手のひらを返したかのように長州藩と手を組んで幕府を倒してしまいます。
この時期の一連の動きをみていますと、薩摩藩は、方針が定まらず、フラフラ揺れ動いていたような印象を受けるのです。
ペリー艦隊が来る2年前、薩摩藩は島津斉彬が藩主となります。
斉彬は、外交問題で悩む幕府の老中を補佐します。
そして、公武合体(朝廷の権威と幕府の力を結びつけて、日本の体制強化を図ろうとする政策)に尽力します。
ちょうどその頃、将軍家では光景問題が起きるのですが、その際には養女篤姫を13代将軍家定の御台所として嫁がせて、一橋慶喜を次期将軍に就かせるための画策を行っています。
将軍家に御台所を送り込んだのは薩摩藩だけでしたので、徳川家との関係は非常に良好で緊密なものでした。
斉彬の急死後は、弟の久光が兄・斉彬の意思継承を唱えて、藩をまとめます。
久光は、斉彬が進めていた公武合体を実現するため京都へ行き、さらに朝廷の勅使を伴って江戸に赴き、幕府に改革を迫ります。
この時、慶喜を幼少の将軍家茂の将軍後見役にも就任させました。
久光は、この上京の際に藩の命令に反して攘夷に加わり、勝手に行動をした西郷隆盛を島流しの刑に処し、藩内の攘夷論者を一掃する(寺田屋事件)など、攘夷に対して厳しい処分を行いました。
薩摩藩は、藩士に「攘夷には一切関わるな」と厳命を下しています。
この薩摩の動きを分かりづらくしているのが「生麦事件」です。
これは、1862年9月14日、久光一行が江戸からの帰途、横浜近郊の生麦村で、騎馬で近づいたイギリス人3人を殺傷した事件です。
これが発端となって、薩英戦争に至りました。
後日、事情が解明し、薩摩とイギリスは友好的な関係を持ちますが、この事件は薩摩藩が攘夷を実行したと誤解される部分がありました。
1863年「8月18日の政変」で、薩摩藩は会津藩や朝廷内の穏健派と手を組み、攘夷派の公家と長州藩の関係者を京都から追放しました。
1864年の「禁門の変」では、京都に進撃してきた長州藩の兵を、幕府勢、会津藩兵と共に迎え討ち、撃退しています。
ところが、1865年には、薩摩藩はそれまで敵対していた長州藩と手を組み(薩長同盟)、幕府と対立するようになります。
そして、倒幕、明治政府を樹立します。
国内の事象だけを見ていると、幕末の薩摩藩は大きく揺れ動いているように見えます。
けれども、実は薩摩藩の方針は一貫していました。
薩摩藩は、常に「外国とどう付き合っていくか」を考えて行動していました。
植民地化されない日本の国づくりのために邁進していたのです。
地理的な影響から、日本の他の地域よりも早くから欧米列強の外圧にさらされていた薩摩藩は、日本が植民地化されることを危惧していました。
それで、早くから幕府や藩という枠を超え、日本が一丸となって欧米列強に対処すべきだと考えていたのです。
その思想を確立し、政策や事業に着手したのが、島津斉彬です。
斉彬は、軍事面だけでなく、民需・社会基盤など、幅広い分野において近代化に取り組みました。
近代的な工業地帯を造り、大砲や砲台、砲台付きの蒸気船を造ります。
そのための反射炉や溶鉱炉、蒸気機関工場ですが、これらは鎖国中のため、西欧から輸入することはできません。
オランダの本を参考に得た知識を日本の技術に置き換えて、独特な技術で造っていたのです。
そして、斉彬は薩摩だけ強くなっても意味がないと、他藩にも技術を提供するのです。
また、斉彬は大砲や砲台も必要だが、人びとの豊かな暮らしを保証することも大事だという考えでしたから、薩摩切子のようなガラス工芸品を生み出したり、明治の基幹産業となる紡績も始めます。
斉彬は「第一に人の和、次いで諸御手当」と、まず人の和を造るため産業を興し、社会基盤を整備して、豊かな暮らしを保証すべきだと訴えました。
そして、外国から侵略されないような軍備を整えるべきだと考え、このことを幕府にも建白しています。
この斉彬の思想は、その後、久光や西郷、大久保らに受け継がれていきます。