薩摩にとって明治維新とは(下旬)薩摩にとって明治維新とは何だったのか

斉彬は、攘夷論者に対しては「無謀の大和魂の議論」と一蹴、むしろ諸外国と積極的に交易すべきだと考えていました。

長州藩と戦ったのは、長州藩が攘夷(外国人を野蛮人だとして打ち払うこと)の実行を目指していたからなのです。

薩摩藩は、先取的な情報の分析から、攘夷実現は不可能とみなしていました。

そして、下手に攘夷を実行すれば、日本を植民地化しようと狙っている欧米列強に口実を与えかねないと危惧していました。

ところが、15代将軍慶喜の幕府は、徳川家の独裁にこだわり続けて、幕府や藩という枠を超える対応ができませんでした。

このため、薩摩藩にとって幕府は邪魔なものへと変わっていったのです。

一方、長州藩は関門海峡を通過する外国船を砲撃し、イギリス、フランス、オランダ、アメリカの報復攻撃を受けて敗北し、攘夷を放棄せざるを得ませんでした。

長州藩が攘夷を放棄したのであれば、薩摩藩は長州藩と戦う必要はなくなります。

そして、坂本龍馬の仲立ちなどもあり、幕府を見限った薩摩藩と、攘夷論を放棄した長州藩は手を組んで、倒幕・明治維新を成し遂げたのです。

つまり、明治維新というのは、幕府を見限った薩摩藩と攘夷を放棄した長州藩が手を組み、日本の新しい体制作りを目指したものなのです。

明治維新派、世界的に見て特異な革命でした。

フランス革命やロシア革命のように、革命というのは通常、それまで抑圧されてきた人びとが、不平不満を募らせて、支配階級を打倒するのが一般的です。

ところが、明治維新は、支配階級である武士たちが、自らを含む封建的階級を解体して、新しい体制を築くという、身分的自殺のような革命でした。

薩摩や長州などの武士にとって明治維新は、自分で自分の首を絞めるようなものだったのです。

そもそも明治維新は、幕府を倒すことが目的でもなく、薩摩藩や長州藩が天下を取ることが目的でもありませんでした。

日本を近代国家にするのが目的でした。

幕府は、その妨げになったから排除されただけです。

そして、幕府が倒れると、やがて薩摩藩も長州藩もなくなりました。

将軍がいなくなると、藩主たちも姿を消しました。

負けた幕府方の武士たちも、勝った薩摩や長州の武士たちも特権や所領を失い、勝者敗者共に、近代国家樹立の産みの苦しみを味わったのです。

明治政府は、諸外国に対処していくために有能な人材が必要でしたので、旧幕府側にも官僚ポストが用意されました。

逆に薩摩では久光が、大臣ポストを用意されていたにもかかわらず、これを辞退し政府と距離をおきます。

また、自らの理想と異なっていった新政府に、不平不満を抱いた武士たちが次々と反旗を翻し、萩の乱、佐賀の乱、そして西南戦争と、不平武士の反乱が起きました。

幕末、明治維新は激動の時代でしたが、日本が近代国家として成立するプロセスにおいて、いろいろいなものが、ここ鹿児島から始まり、全国に広がっていきました。

早くから世界に目を開き、非常に先進的な考え、文化を持っていたのが、この鹿児島なのです。

みなさんも是非、郷土鹿児島に誇りを持って、いろいろな方々に鹿児島のすばらしさを発信していただきたいと願っております。