私たちは、自分がかけている願いについては、かなりよく覚えているものですが、自分にかけられている願いについてはなかなか気付くことができないものです。
だいたい、気がついたら私はこうして生まれていたのですが、その時には既に親がつけた名前で呼ばれていました。
それぞれの名前には、一般に親が「このような人になってほしい」とか、あるいは「このような人生を生きてほしい」といった願いがこめられています。
つまり、名付けられて、その名前を呼ばれ続けてきたということは、ずっと願われ続けてきたということです。
このことから、私のいのちは、生まれた時から願いの中に生かされてきたということが知られます。
また、自らのいのちの事実に目を向けてみると、私のいのちは、単に親によって願いがかけられているということだけではなく、多くのいのちの願いが私のいのちのただ中において、いのちをゆり動かすようによびかけてくるという事実があることに気付かされます。
「いのちの事実」とは何かというと、生きていくために、海の大地の生きている無数のいのちを食べて生きているということです。
経典には、「生きとし生けるものは、すべて自らのいのちを愛していきている」と説かれていますが、私は自分が生きていくために、直接・間接的にそのいのちを殺して、自らのいのちの糧にして生きています。
榎本栄一さんに、「いのち」の中で実感している罪の身の重さ、罪悪の深さについて懺悔された
私はきょうまで
海の大地の
無数の生き物を食べてきた
私の罪の深さは底知れず
「罪悪深重」という詩がありますが、このいのちの事実に気づき、殺すことをやめれば、今度は自分のいのちを殺すことになってしまいます。
一方、自分のいのちを保とうとすると、やはりこれまでのように他の尊いいのちを奪わなければなりません。
ところで、私たちは日頃そのようなことに真摯に目を向けているかというと、実のところほとんど思いもしないというのが日常のあり方です。
そのため、食事をしているとき、鮮度や美味しさを語ることはあっても、「いのちを食べている」ことについて口にすることはまずありません。
海の、大地の、無数の生き物を食べなければ、生きられないのが私の「いのち」の事実だからです。
ただし、一つ知っておかなければならないことがあります。
それは、人間だけが生き物であることを考え、生き物であることの意味を問い、生き物であることの恐ろしさを実感することができるということです。
確かに、人間以外の生き物も他のいのちを食べていきていますが、人間だけが、海の、大地の、無数の生き物を食べて、そのことを「私の罪の深さは底知れず」と実感することができる存在だということを自覚する必要があります。
おそらく、この世に生を受けているどんな生き物も、自ら「死にたい」と願うことはないと思います。
ただ、人間だけが時に絶望し、時に生きる勇気をなくし、「死にたい」と思ったりします。
どんな生き物も「いのち」の根底には、その「いのち」を生き尽くそうとすることがあるのですが、私たちは自らが生きるために、その「いのち」を殺して、食べて、生きています。
そうすると、私たちの耳には聞こえないだけで、もしかすると死んでいくすべての「いのち」は、何かを私たちに言い残しているのではないでしょうか。
それは、自分の「いのち」を無駄死にしないような「いのち」を生きてほしいということではないかと思います。
親鸞聖人は、人間にとっての一番の不幸を「空過」という言葉で示されます。
これは「一生が空しく過ぎてしまう」ということですが、私たちは誰もが自分の人生を精一杯いきています。
ですから「日々、本当によく努めておられますね」と、評価される言葉をかけられると、「はい!」と笑顔で応えます。
けれども、続いて「でも、最後は死んでしまいますよね〜」と言われると、その後にはもう言葉が続かなくなってしまいます。
「こんなに頑張っているのに、“最後は死んでしまうよ”といわれたら、いったい私は何のために頑張っているんだろう」
と落ち込まざるを得ませんし、その問いに答えが出せないまま人生が終わるとしたら、どれほど懸命に生きてたとしても、最後は「空しく過ぎてしまった」という言葉に、すべてが砕け散ってしまうことになります。
これを「空過」と言われるのですが、無数のいのちの願いに耳を傾けることもなく、また応えることもできなかったとしたら、やはり「空過」することになるのだと思います。
このような意味で、私の「いのち」は、決して私一人のものではなく、まさに多くの「いのち」の願いの結晶なのだと言えます。
そして、この事実に目覚めるとき、私は自身が生きるという事実の中に、私にかけられた無数の願いを成就するという大きな使命が与えられているのであり、これが人間としての生を受け、人間として生きていくことの意義なのだと頷くことができるように思われます。