「貧乏な人とは無限の欲があり、いくらモノがあっても満足しない人のことだ」
これは、南米の小国ウルグアイのホセ・ムヒカ大統領(77)が、昨年6月の国連持続可能な開発会議(リオ+20)でのスピーチで述べた言葉だそうです。
登壇が国連加盟国193カ国の最後だったこともあり、各国の参加者が去った後で、聴衆がほとんどいない中でのスピーチだったのですが、その後このスピーチの内容がインターネットで評判になり、イギリスBBC放送は
「世界最貧で最高の大統領」
と紹介する番組を制作したそうです。
「世界最貧」
というのは、大統領の報酬月額25万ウルグアイペソ(約115万円)の9割近くを社会福祉基金に寄付し、資産も自宅農場と1987年製フォルクスワーゲンビートル1台のみ。
クレジットカードや銀行口座などを持たず、公務の合間にトラクターに乗って畑仕事と養鶏をして暮らしていることに基づく表現だそうです。
確かに、大統領の手取りが月額約12万円足らずというのでは、そのように言われも仕方ありません。
ところで、仏教では三悪趣の中に
「餓鬼」を説いています。
「餓鬼」というのは、インドの
「プレータ」という言葉がもとになったもので、言葉そのものの直接の意味は
「逝けるもの」ということだそうです。
この餓鬼には「三種あり」といわれます。
一つめは「無財餓鬼」。
これは、普通に考えられている餓鬼の相です。
まったく食べる物も、飲むものもなく、たえず飢えている存在です。
二つめは「少財餓鬼」。
膿(うみ)とか血とか、他人が何か飲んだ時に唇から落ちるしずくを飲める程度で、少しだけ何かを口にすることができます。
三つめは「多財餓鬼」。
これは、他人が施したもの、食べ残したものを食べることができます。
しかも、この多財餓鬼は
「天のごとくに富楽」
といわれています。
つまり、天上界にいる天人のように食べる物に富んでいるといわれるのです。
にもかかわらず、それが餓鬼だと言われていることに注意したいと思います。
私たちは、一般に餓鬼という言葉を聞くと、飢えている相だけを思い浮かべてしまうのですが、実は餓鬼には何も無くて飢えている餓鬼と、たくさんあって飢えている餓鬼との両方の餓鬼がいるのです。
『無量寿経』という経典の中に
「尊いものも、卑しいものも、貧しいものも、富めるものも、ともにお金のことに心を煩わされている。
欲しいという貪りの心に苦しめられていることにおいては、財を持っているものも、財を持っていないものも同じである。」
と説かれています。
これは、財を持たないものだけが
「欲しい、欲しい」
といって貪りの心に苦しんでいるのではなく、たくさん持っていることで、いよいよ貪りの心に苦しんでいるものがあるというのです。
このことから、餓鬼とは、土地とか金銭とか、そういう自分以外のものをもって自分を満たそうとするもののことを言い当てた言葉だと言い得ます。
この「外のもので自分を満たす」ということは、まさに自分自身がなくなっていくということに他なりません。
なぜなら、外のものをいっぱい自分の中に詰め込めば、自分自身はなくなってしまうからです。
振り返ってみますと、私たちはいろいろなものをかき集めてそれで満足してしまうことがあります。
その一方で、あれこれ集めてはみたものの、しばしばそれらを使いきれずにいるということが少なからずあります。
「持っていること」と
「使っていること」は、違うのです。
ところで、多財餓鬼は
「天上界にいる天人のように…」
といわれるのですが、では天上界とはどのような世界かというと、私たち人間の夢が、人間的に満たされた世界です。
例えば、お金が欲しいという思い、家が欲しいという思い、それらの思いがかなった時、私たちは
「天にも昇る心地がする」
と言ったりします。
ただし、残念なことに、それは手に入れた時だけのことであって、やがて馴れてくれると感激は薄れる一方で、いわば幻の楽しみに過ぎません。
身近なところでは、大画面のテレビも、買ったときはその画面の大きさに感激するのですが、毎日見ていると、いつの間にか見馴れて、特に何も感じなくなってしまいます。
地獄の苦しみは、手に入れることが出来なくて苦しむということがあります。
それこそ、いろいろな苦しみに苛まれるのですが、しかし、地獄の苦しみは、うめいたり、愚痴をこぼしたり、世の中を呪ったりすることが出来ます。
けれども、天上界の天人の苦しみは、どこにも持って行き場のない苦しみです。
自分がひたすら求めてきた、そしてそれが遂にかなったと思ったのも束の間の喜びで、それが夢、幻であって知らされた苦しみだからです。
ですから、餓鬼というと、私たちは
「無財」
ということばかり思い浮かべてしまうのですが、天上界のごとく豊かな在り方をしている多財餓鬼が説かれているということは、餓鬼という在り方のすべてにおいて、
「常に飢えている」ものの在り方が「餓鬼」という相として説かれていることが知られます。
私たちの社会には
「モノが溢れている」
と言われます。
そのような社会を生きる私たちは
「無限の欲があり、いくらモノがあっても満足しない人」
になることのないよう、心したいものです。