……よよと嗚咽に沈んだまま、万野は後のことばを継げないのである。
親鸞の面(おもて)は、はっと驚きを湛えて白く冴えてしまう。
また――次の部屋にひかえて、都の消息はいかにと耳を澄ましていた弟子の人々も、氷室のようにしいんとしてしまった。
冷たいものがすべての人の姿を撫でた。
その中に、万野はなおすすり泣いていた。
「――ちょうど、霜月の二十六日でござりました」
万野に代って、鈴野が後の話をつづけた。
「看護(みとり)の方の心づくしも医薬のかいもなく、裏方様には、とうとうお亡くなり遊ばしました。
まだご幼少の範意様を残して。――そのお胸のうちを偲びますと、どのようであろうかと私どもまでが」
と、鈴野のことばもすぐ涙のうちに乱れてしまう。
その玉日の最期まで、枕元に侍(かしず)いて、看護をしていたこの二人であった。
二人はどうしてもこのことを越路の親鸞に親しくお告げしなければならないと思った。
――で、越路の雪の解けるのを待って、裏方の遺物(かたみ)をたずさえ、はるけくも、都を立ってきたのであった。
「……玉日も。……また月輪の老公も。……ムム、そうであったか」
親鸞はつぶやくようにいった。
かえりみれば自分の生涯もすでに初老の坂へかかっていた。
はっきりと時の流れが眼に見える心地がする。
無言の裡に親鸞の胸へ湧きあがってくるものは、悲愁ではなくて念仏であった。
――念仏がふと胸にやむとき、悲愁の思いが、堤を切って溢れる水のように、彼を涙に溺らせかけた。
憂いに重い春の一日は暮れた。
人々は心を遠く都へ送って、幾月かを、裏方のために――また、亡き月輪禅閤のために、冥福を祈って送った。
万野と鈴野のふたりは、幾日かをここに送るうちに、ふたたび都へ帰る気持を失ってしまった。
――帰っても今では仕える人のない都はあまりに闘争の巷だった。
「どうぞ、この御庵室に端になと置いてくださいませ。――お弟子としてお許しなければ、しばらくはお下婢(はした)の者としても」
ふたりの願いを、親鸞はゆるした。
もちろん、代官の萩原年景へ事の仔細をとどけ出た上で。
ほととぎすが啼く。
春から夏のはじめにかけて、流人親鸞の髪は蓬々(ぼうぼう)と伸びていた。
――何とはなくこの幾月かを、彼は病む日が多かった。
「ご無理でない」
と、西仏も生信房も、そっと涙をうかべてつぶやいた。
師のかなしみは弟子のかなしみであった。
師の心もちを考えるとき、彼らも胸が痛くなって、裏の山に鳴く昼時鳥(ひるほととぎす)の声にも腸(はらわた)を断たれるような心地がした。
――だが親鸞は、そうした弟子たちの沈んだ顔いろを見ると、それが自分の悲しみの反射だと知って、心を取り直したものとみえる。
彼は、髪の伸びた頭(つむり)へ網代笠をいただいて、また、近郷の教化に出歩いた。
その姿は、いよいよ、ただ念仏の道へひた向きに生きようとする尊い光を加えていた。
やがて四十になろうとする親鸞のうしろ姿は、はっきりと、この越後へ来る前の親鸞とは違った高さをその人品にも持ってきた。
教化につかれた夏の夕べを、鈴野と万野のふたりは、畑の野菜を煮て、親鸞や弟子たちの終日(ひねもす)の労をなぐさめた。
――そんな夕餉時の一瞬には、誰の胸にも、信仰生活の悦びが溢れて、この小丸山の家は、さながら夕顔の花に囲まれた浄土そのもののようであった。