親鸞 仏を見た弟子 2016年5月13日

「はての?」

今気がついたように、定相(じょうそう)はつぶやき出した。

三人の弟子は、縁先で、榧(かや)の枯れ木を蚊遣(かや)りに焚いていたのである。

「なんじゃ、定相」

と、教順が不審がる。

念名も共に、

「なにを思い出して?」

と、笑った。

定相は真面目な顔つきで、

「いや何、石念のことだが……石念は夕餉のときに、皆と共に、斎(とき)の膳についていたろうか」

「さ、いたいようにも思うし、おらなんだようでもあるが……」

「怪(け)しい男じゃ」

「どうしての」

「どうしてというて、おのおのには、石念のこのごろの様子が、いぶかしいとは見えぬか」

「そういわれれば、なにやら、妙なふしもあるが」

「あるが――どころじゃないわ。あれは近ごろ、どうかしておる、よほどどうかしておる。憑きものにでもつかれたような」

「ふむ……。なんぞ、そうした原因があるのかの」

「それはあろうとも」

「なんじゃ、一体、石念の憑きものというのは……」

「いや、それはいわれぬ、滅多に口にすることじゃない」

定相はにがり切って、蚊遣りの煙のうちに、唇(くち)をむすんでしまった。

暗黙のうちに、他の二人もうなずいた。

やはり口に出せなかった気持なのである。

それは、彼らの潔癖にとって、最も忌わしく感じられることなので、それを是認することは、自分たちの法の同胞(はらから)の醜悪を認めるような気がするからだった。

もっとも、石念のそれは、あの都から来たふたりの女性(にょしょう)がここに共に住むようになる前から、本質的に、なにか焦々(いらいら)しているふうが見えた。

それが、火となって鈴野への恋となっていることを、こう三人はうすうす知っていた。

恋を――女への仏弟子のそういう態度を、極端に冷蔑し、むしろ醜にさえ考えている三人には、石念のそれからの挙動が、ことごとにおかしくて、馬鹿らしくて、そしてこんな男が同房のうちにいるということだけでも、何かしら、腹立たしかった。

この教順を初め、三名の弟子は、元々、京都から従(つ)いてきた親鸞の古い弟子ではなかった。

親鸞が北国へ来る途中からの随縁であった。

それだけに、この人々のどこかに旧教の――聖道門の観念とにおいが強くこびりついていた。

「また、あの竹林の奥へ入って、ぽつねんと考え事に耽っているのじゃないか」

と、人々は、すずしげな夏の月を見あげた。

月光の下には、深い篁(たかむら)が夜露に重くうなだれていた。

「そうかも知れぬ……」

定相は、苦笑した。

そして、

「救われぬやつだ」

と、嘆くような眼をした。

「見てこようか」

「いや、よしたほうがよい。魔に憑かれているうちは、人のことばなど耳に入るものか。いずれそのうちに、師の房からお叱りがあるだろう」

その親鸞の室には、もう灯りが消えていた。

三名もまた、あしたの炎天の托鉢を考えて、戸を閉めて、眠りについた。

*「篁(たかむら)」=竹の林。竹やぶ。竹のむらがって生えている所。