「まず上がれ」と、西仏は遠来の旧友に、昔の武者言葉を出して、
「師の上人もご在室、ゆるりと昔語りもしよう」先に立って、いそいそ奥の室へ案内して行く。
三郎盛綱は、太刀の緒を解いて、左手に提げ、
「さらば」と、彼の後に従いた。
広くはないが、配所とも見えぬほど閑寂な幾室がある、短い二間(にけん)ほどの橋廊架を越えると、そこには何か非凡人のいるものの気配が尊く感じられて、三郎盛綱は、いわれぬうちから、
(ここが上人のお住居(すまい)であるな――)と感じて、おのずから襟を正しめられて控えていた。
西仏は、妻戸の外にひざまずいて、両手をつかえ、
「師の房様。おさしつかえござりませぬか」
くんくんと何かのにおうそこの室の内から、親鸞の声がすぐ答えた。
「どなたか」
「西仏です。――じつは只今、私の旧友で、師の房にもとくご存じでおわしましょうが、近江佐々木の庄の住人、佐々木三郎盛綱が、なにか親しくご拝眉を得たうえで、お願のすじがあると申し、はるばるこれまで訪ねてござりましたので、お会い下さるなれば、有難う存じますが」
「…………」
何か黙考しているらしくもあるしまた、机のうえでも片づけているのか、しばらく返辞がなかったが、やがて――
「どうぞ」
と、いうのが聞えた。
西仏は振向いて、三郎盛綱のうれしげなうなずきを見た。
そして、静かに妻戸を引いてそこを窺うと、朽葉色の法衣のすそがすぐ盛綱の眼に映った。
(ああ多年、会いたいとお慕い申していたおん方、今こそ会えるか)と、盛綱は若者のような胸のときめきを覚えて、屈(かが)み腰に、そっと進む。
――すぐ後ろから、鈴野が胆檠(たんけい)を持ってきて、主客のあいだへ、静かに明りを配る。
――そしてこの老武者が有名な源氏のさむらいであるかと、尊敬と物めずらな眼を客に向けて、退がって行った。
時の流れはあわただしかった。
治承、寿永という風雲乱世は、つい昨日のようであったが、今はもう鎌倉幕府という言葉さえ、民衆には新しいひびきが失(な)くなっている。
鎌倉幕府自体にさえ、種々(さまざま)な弊政やら、葛藤やら、同族の相剋やら、醜いものの発生が醸し出されて、そろそろ自壊作用の芽をふきだしていた。
その源氏が、隆々と興って、治承、寿永の世にわたって、平家を剿滅(そうめつ)して行ったころには、源平両軍が戟(ほこ)を交えるところに、佐々木三郎盛綱の名が功名帳に輝かないところはなかった。
――だが、そうした武運のめでたい男も、鳥坂城(とさかじょう)に城資盛(じょうのすけもり)を討った老後の一戦から、ふッつりと、明けても暮れても血の中の武士(さむらい)生活に無常を感じて、
(何がゆえに?)
と大きな悩みと迷いを生じ、子のある親を討ち、親のある子を討って、それを兜の八幡座のかがやきと誇る武者のこころが忌わしくなり、武具馬具打物などのすべてのそうした血なまぐさい物に囲まれている日常が、耐えられない苦痛になっていた。
*「八幡座(はちまんざ)」=八幡神の宿るところの意で、かぶとのはちの中央のあな。