「新しい世界遺産と南九州の焼酎」(3/4)常に時代を先取りしていた薩摩

 伊能忠敬よりも140年も前に鹿児島の人たちは正確な地図を作っていました。

大航海時代に大海原に出て行って商売をしていた南九州の人たちは、高度な測量技術を身につけていたのです。

 開明的で英明な殿様も出てきます。

島津斉彬の曾祖父にあたる島津重豪は、世界地図を薩摩藩で出したり、自らローマ字で書き初めをしたりしています。

 「KIMIGAYOWA TIYONIYATIYONI…KOKENOMUSUMADE」と、国家「君が代」の基となる薩摩琵琶歌の歌詞をローマ字で書いています。

1862年3月、重豪は82歳のときに、曾孫の斉彬を伴ってオランダ商館の医師シーボルトに会っています。

シーボルトの記録には、重豪公は自らオランダ語を話し、剥製の作り方などいろいろな質問をしたということが残されています。

 一方、幕末になりますと、いろいろな外交問題が発生します。

イギリスやアメリカの捕鯨船などが盛んにやってきました。

捕鯨船は、世界各地で操業し、長期間帰国しないため、どこかで食料等を補給する必要があります。

 ところが、日本が鎖国しているので、補給できず困ってしまうのです。

そこで、捕鯨業者の組合がアメリカ合衆国の議会に働きかけ、開国を求めてペリーが派遣されることになりました。

 トカラ列島の宝島では、イギリスの捕鯨船の船員と牛の捕獲をめぐって銃撃戦になり、死亡する事件も起こりました。

そういう外国人との衝突が起こってくるのが、この幕末です。

北海道や江戸付近をはじめ、各地で外交問題が起こるようになりました。

彼らは何をめざしてやってくるのか。

それは、あわよくば日本を植民地にしたいと思ってやってくるわけです。

この頃に「篤姫」が13代将軍徳川家定の正室になります。

時代は病弱な将軍を許さず、健康な後継者を望んだ故のことでした。

島津斉彬は、常に世界情勢を見極めていて、早期に近代化をしなければならないと考えていたことから、磯地区に集成館という工場群を造り、ここで70キロほどの弾を飛ばす能力のある大砲や西洋式の軍艦を造りました。

徳川幕府も薩摩藩に西洋式軍艦を3隻注文しています。

最初の船「昇平丸」は、幕府に寄贈されました。

このとき、国籍識別のために、水戸の徳川斉昭と島津斉彬の共同提案で、日本船総船印として「白地に赤い日の丸の旗」を掲げました。

薩摩切子で有名なガラス工場ですが、この時代は主に軍艦の窓ガラスを作っていました。

そういうものを作るのが、近代化の目標だったのです。