「新しい世界遺産と南九州の焼酎」(4/4)郷土に利益をもたらした焼酎と鹿児島が持っている「場の力」

 明治22年に新潟長岡から宮之城の盈進(えいしん)小学校に赴任し、明治25年まで在任された本富安四郎先生が『薩摩見聞録』を書いておられます。

 その中に

「焼酎は2種ある。米にて作るこめん焼酎と甘薯(かんしょ)にて作るからいもん焼酎。こめん焼酎を上品とす。からいもん焼酎は、味が劣り、少し臭気あり、下品とす」

と、あります。

 明治のこの時代でもまだそうでした。

でも、ここで「からいもん焼酎」が出てきます。

おそらく、古くから、芋が入ってきた頃から「からいもん焼酎」は作られていたと思います。

しかし大量ではなかった。

やっぱり「こめん焼酎」が主流だったのです。

 ところが、斉彬の時代に芋焼酎が大量生産されるようになります。

近代兵器に使用する「雷汞(らいこう)」を作る必要があったからです。

「雷汞」は雷酸第2水銀のことで、水銀を硝酸に溶かしエチルアルコールと反応させてつくる起爆剤です。

雷汞製造には、大量のアルコールを必要としたために、薩摩藩の場合、焼酎が流用されました。

 斉彬は、サツマイモを原料とした「芋焼酎」の改良と利用を命じました。

工業用だけでなく、これを薩摩の特産品にすれば、大変な利益を生むと考えたのです。

ただ、芋焼酎が大きな利益を生むようになったのは最近のことです。

 今日では、全国各地で色々な銘柄の焼酎が販売されていますが、これらは、近年の焼酎業界の方々のご努力、そして焼酎の持っている効能、ホリフェノールや血液さらさら効果などの情報が広まったことによるものです。

 薩英戦争後、薩摩藩は留学生をイギリスに派遣し、近代文明を学ばせました。

欧米で多くのことを学んだ人たちは、帰国後は当時東洋一となる磯の工場群充実させることに尽力しています。

 後に、西郷さんや大久保さんらが明治政府で、斉彬公の掲げていた「富国強兵」「殖産興業」の2本を柱に国づくりを進めました。

 司馬遼太郎さんの小説には、貧しい薩摩の青年武士たちが義憤に燃えて京都に行き活躍し、倒幕したと書いてあります。

しかし、彼らは「近代とういうものは何か」ということを、すでに鹿児島で見ていました。

集成館を見ながら育っていたのです。

 田舎の青年たちではありましたが、近代や近代の礎となっている資本主義とか社会体制などを分かって行動していました。

そうでなければ、あれだけのことは成しえなかったと思います。

近代化というのは、南九州の歴史を通して語らないと、単に幕末から明治だけでは語れません。

古来よりここにあった「場の力」が大きいのです。

辺境にあるからこそ、イノベーション(技術革新)、新しいカタチの創造が生まれ、彼らが誕生したわけです。

ですから、今度の世界文化遺産の話を子どもたちに、語り続けていく必要があります。

彼らには、イノベーションを起こすDNAが仕組まれています。

そこをプッシュする工夫を今からしていかなければならないと思っております。