「はての」
生信房にも分らなかった。
百姓たちには元より親鸞の今のことばは、難しい。
「お上人様、一念一植とは、いったいどういうことでございますか」
「されば……同じこうして田に苗を植えるにしても、ただぼんやりと植えたり、仕事を厭うて嫌々植えたりしていては、苗も、確乎と大地に根を張って、お陽さまの恵みをいっぱいに吸うて育つはずがない。
――わしが植えるには、ただ手を動かしているのみでなく、一つまみの苗の根を田へ下ろすごとに、有難や、この苗のために、わしらは今日飢えもせず、日々(にちにち)幸福(しあわせ)に生きている。
――しかのみならず、親鸞を養い、子を育てている。もっと大きくいえば、この日の本の国民(くにたみ)を、この汗とこの苗の功徳をもって養うているのじゃ。
――思えばかたじけなや苗の恩、何とぞ、わが家族たち丈夫に肥え、この日の本の国民の糧(かて)やすらかにあるように、伸びて賜もれ、実って賜もれ、たのみ参らすぞ――と心に念じて、一つ植える」
と親鸞は田を植えながら、泥によごれた脛を、蛭に食われているのも気がつかずに、熱心に話した。
そして、ことばを切って、腰を少し持ち上げると、蛭が脛にかみついていたのに気づいて、あわてて泥の手で蛭を取りのけた。
「あはははは」
「はははは」
「さすがに、お上人様は、やはり都人でござらっしゃる」
と、並んでいる百姓たちは、皆田植笠の下から笑った。
「そのような長い文句を仰っしゃって、一念しては、一植なさってござらっしゃるゆえ、なるほど、それでは田植がおそいはずじゃ――。百姓どもが、そのようなことをしていた日には、飯(まま)になりませぬわい」
「いやいや、皆の衆、それは聞きちがえじゃ。――親鸞とても、一つまみの苗を植えるたびに、胸のうちで、そういうのじゃござらぬ、今申したのは、田の中へ足を入れる時に、心で念じ申すので、苗を植える手を動かすには、もっと短いことばでよいのじゃ」
「もっと短いことばというと、どんなことを念じまするか」
「それ、晩に、わしがいつも話しておるではないか。なむあみだぶつ。――ただそれだけ」
「なむあみだぶつと申せば、今、お上人様の仰っしゃったような長い文句を念じる代りになりまするか」
「なりますとも、なむあみだぶつの六音のうちには、もっと宏大無辺な感謝と真心と希望(のぞみ)とがこもっておりますのじゃ」
「では易いことじゃ、わしらも、苗を植えながら申しまする」
人々は、笠をそろえて、親鸞のいわゆる一念一植を行念した。
仕事に対する不平不満、生活の懈怠(けたい)や憂鬱も、すべてその声念のうちに溶かされて、百姓たちは、心から働く喜びに浸りきった。
その時、親鸞は、左に苗の束を持ち、右の手にそれを少しずつ頒け取っては、田水へ植え下ろしてゆきながら下ろしてゆきながら、心のどかに――静かなよい声で、農民のために彼が自分で作った田植歌を歌った。
五劫思惟(ごこうしい)の苗しろに
兆歳永田(ちょうさいえいでん)のしろとして
一念帰命の苗を植え
念々称名の水をかけ
往生の秋になりぬれば
実りを見るこそうれしけれ
*「五劫(ごこう)」劫(こう)は、仏教で、きわめて長い時間のこと。従って五劫は劫の五倍。はかりしれないほどのきわめて長い時間をいう。仏教では、阿弥陀仏が法蔵菩薩のとき、みずからの誓いについて考えた時間のこと。