さつまの真宗禁教史 3月(前期)

5 真宗不帰依を誓う家臣団

前述のように、慶長二年(1597)真宗禁止令が発布されると、同十一年(1606)八月十一日、島津氏の重臣大口(伊佐市)地頭新納忠元の家中五十名は三箇条の起請文を提出し、その初状において

一今度一向宗就御糺明、互心底不存候、我々事は彼宗に不罷成候、勿論向後別心有間敷候(一向宗

御禁制由来)

と、一向宗に帰依しないことを誓いました。

このようにして、一向宗禁制政策はまず家臣団に徹底されて恒久的な政策として定着したのでした。

またこの起請文によって、上層家臣団にも真宗信仰が浸透していたこと。

この頃、家臣団の一向宗徒の糺明が行われたこと等々を伺うことができます。

そして、家臣団の間で「互いの心底は存ぜず候」と、真宗信仰の有無をめぐって互いに猜疑心が働いていたことも注目されるでしょう。

つまり、真宗禁止政策は、家臣団が団結することを阻む役割をも果たしました。

もう少しいえば、家臣団が団結して島津氏に背くことを防ぐ効果があり、島津氏の強固な近世封建支配体制の確立に有効に機能したのでした。

6 縷々発布される真宗禁止令

慶長十年(1605)十八代家久は一向宗徒になることを禁じ、これを勧める者は直ちに報告するように命じました(御留守之間置目之条々)。

また、寛永元年(1624)十一月十三日「留守中法度之条々」や、同十二月八日家久袖判状には「一向宗・切支丹宗は新しからずと雖もいよいよ堅く禁制たるべし」(旧記雑録七七)とし、寛永九年(1632)九月八日家久袖判の覚には「当家に前々より嫌み来る一向宗・南蛮宗は弥々禁制を守るべく、右の宗体顕はれるに於いては罪科厳重に行ふべし、殊に南蛮宗は天下の法度につき緩がせあるべからず」(旧記雑録八五)とあり、真宗禁止令は再三発布されました。