濃淡・美醜・寒暑・善悪・黒白・大小・智愚・明暗・緩急・方円・遅速…」
といった言葉があります。
このような表現の仕方は日本語独特のもので、英語など他の言語には見られないそうです。
日本人には
「対立するものを互いに取り込むと」
いう考え方があり、互いが溶け合う微妙な味わいを大切にしているからこそ、このような言葉が生まれたのだと考えられます。
こうした言葉の中で、もっとも意味深い言葉が
「生死(しょうじ)」
です。
和語風に言えば
「生き死に」
ということになりますが、いわゆる
「日本人の法則」
に従えば、生と死をはっきりと切り離すのではなく、生から死へ、死から生への連続的なつながりを考え、生と死との間にはっきりとした断絶を考えない言葉のはずです。
ところが、現代の私たちにおいてあるのは生か死かのどちらかであって、
「生死」
というように生と死をひとつにしてとらえるという理解の仕方は、既に失われているように思われます
考えてみますと、現在の私たちは生・老・病・死をすべて名詞で理解し表現していることに気付かされます。
しかし、現実には
「生というもの」
がある訳ではなく、
「生きている」
という事実があるのです。
そして
「生きている」
ということは、生きて動いているということであり、動いているということは、常に時々刻々と変化している、仏教でいうところの
「無常」
の中にあるということに他なりません。
「老」
ということについても、今日では
「老後」
という言葉が用いられています。
「老後」
という言葉は『広辞苑』によれば、
「年老いて後。年とってのち」
と定義されていますが、江戸時代には
「老後」
ではなく
「老入(おいれ)」
という和語を使っていたと言われます。
「老後」
というと、
「年老いて後」
ということで、少なからず後ろ向きの印象がありますが、
「老入」
というと前向きの姿勢が感じられますし、人間としてのひとつの歩みとして、
「老」
ということがとらえられているようにも思われます。
また
「死」
ということについても、
「死」
という名詞で表現してしまうと、本の中の活字のように静的なものになり、まるで
「死」
というラベルの下に整然と納められてしまっているような感じがします。
けれども、
「生きている」
ということが運動であれば、
「死」
もまた名詞ではなく、
「生きる」
ことの自然な帰結として
「死ぬ」
という、動きを表す言葉が適切であるように思われます。
にもかかわらず、私たちの場合、やはりあくまでも
「生」
の面においてのみ自分というものを考えてしまっています。
したがって、死は私の人生を奪い去り、私を無にしてしまうものとして実感されています。
そのとき、死は私にとって全く見通しのきかない、暗黒の闇として受け止められています。
そして、ことあるごとに、その闇から私を脅かす不安が込み上げてきて、私を包み込んでしまうかのように感じられます。
いわば、私を呑み込んでしまう暗黒の世界として、死は私の足元に横たわっているのです。
このような生き方においては、死は生を呑み込んでしまうものであり、生は死を恐れる生として、あいまいで不確かなものとして生きられているものでしかあり得ません。
そこでは、
「生死」
は同じ私のいのちの事実であるにもかかわらず、全く繋がりを断ち切られ、それぞれ対立するものとしてのみ感じ取られることになります。
そのような私たちの生死の在り方を、仏教では
「分段生死(生と死が分段されている生死)」
と言い表しています。
お釈迦さまは、
「死の自覚」
を徹底されることによって、真に愛すべき生を見出し、それをひろく説き、確かな道として成就してくださいました。
にもかかわらず、私たちの現実は、死を忌み嫌い、眼を背けることによって、まるで自分だけは死なない者であるかのように、今を曖昧なままに生きています。
もちろん、頭では、自分もいつか必ず死ぬということをおぼろげながら知ってはいるのです。
それでもなお、人間一般の話としてしか意識していないこともまた事実です。
そのため私たちは生にとらわれ、死を恐れ、そこに常にいろいろな不安を持ち、迷いを重ね、様々な言葉に惑わされています。
そして、お札を受けたり、日の吉凶、方角の善し悪しを気にしながら生きています。
そういう迷いの根っこにあるものは何かというと、生死にとらわれる心なのです。
仏教でいう
「生死を離れる」
ということは、生と死を二つに見分けて、生に執着し死を恐れるという心を離れるということです。
今年も残り少なくなりましたが、まさに
「生死無常のままに年暮れ」
て行こうとしています。
今、私が出会っているお念仏の教えとは
この生活の中で、どれだけ行き詰まりを体験しても、その全てを受け止めながら生きて行ける道です。
それは、
「死んでも死に切れない」
のではなく
「今のままで死に切れる」
人生を生み出して行く教えだということです。
意義のある人生を深く生きる、そういう生き方をしたいものです。