『生死無常のまま年暮れる』(前期)

先日、あるご門徒宅にお参りさせていただいた時の話です。

奥様を亡くされ、初七日のお参りでした。

近所でも評判の働き者の方で、今年も稲刈り、稲こぎなどに精を出されていたのですが、少し体調を崩され入院して間もなくのお別れでありました。

おつとめが終わり、お茶をいただいておりますと、車いすに座られたご主人が

「体が不自由な自分の分まで、嫁は仕事に励んでおりました。

私が先とばかり思っていたのに、本当に命は分からんもんですな。」

としみじみ語ってくださいました。

ご主人は、奥様との別離を通し、“いのち”に向き合われたのでありましょう。

いつかは別れていく、限りある“いのち”であると、知識としては分かっていても、なかなか自分のこととして受け止めることができない私です。

私も父親との別離を通して感じたことでありますが、自分にとって縁のある方との別離は、自らにいのちの問題と向き合わせていただくことであります。

御文章(浄土真宗の教えを分かりやすく伝える蓮如上人の手紙)の白骨章に

「我や先、人やさき、今日ともしらず、明日ともしらず…」

とあります。

どなたの人生も、いつ何が起こるか分からない、無常のいのちを生きていることを示されているのです。

無常とは、移りゆく、変わっていくこと。

また、変わりゆくものであるから、今ここにあることの尊さに目覚めていくことであります。

仏教の教えを聞き、いのちを見つめるとき、無常のいのちを生きている私であったと知らされます。

今年も残りわずかとなりましたが、当たり前に毎日が過ぎるのではないと思うとき、今いのちあることに感謝し、この“いのち”をどう生きるべきかと思いをよせることであります。