「実るほど 頭を垂るる 稲穂かな」という法語が、身近に味わえる季節を迎えようとしています。
人間の「知恵」の生活と、仏さまの「智慧」の世界とは大きな違いがあります。
仏の教えは、知識・学問・教養を高め、「知恵」を誇って賢くなっていく世界(頭を下げる)ではなく、その反対に、仏さまの「智慧」の眼をいただくなかに、今まで気づけなかった愚かさに目覚め、自然に「頭が下がる」身に育てられるのです。
そうしたはたらきは、ご法話の中でしか聞くことができないのではありません。
あるお寺の掲示板に
たねもあり 土あり 水あり 光あり 春夏秋冬 おみのりにあう
とありました。
季節を含め、日常生活こそ聞法の道場といえます。
換言すれば、欲得多い煩悩の日暮らしの中で味わうことができますが、そのことになかなか気づけないものです。
なぜならば、人間というものは、「知恵」を誇り、自惚れ(思い上がり)が強い存在だからです。
お互いに、仏さまの教えに謙虚に耳を傾けたいものです。
落ち葉に想う
これから秋の装いも深まってきます。
そのことを、自然の織りなす山々の美しさが教えてくれます。
ことに、紅葉の美しさは、私達にいのちの深さをさりげなく伝えてくれます。
この紅葉の美しさは「朝夕の気温が下がり、根や葉の働きが衰え、葉の葉緑素が壊れてしまうことにより、緑素が消えて赤い色素に代わり紅葉すること」と自然現象として説明できますが、いのちのあり方として見ますと、また味わい深いものがあります。
その様子は心優しき人々にめでられ、実を結ぶはたらきをしていた木々の葉が、散る前にその生命を燃え尽す姿とも見えます。
舞い散る色あせた枯葉の一葉一葉に、いのちの歩みをふと感じるのは、ただの感傷ではないようです。
どの木も紅葉するところとなった 終わりを美しくする
み仏の教えを 彼等が一番 知っているような気がする
(坂村真民)
落ち葉というと、凋落、盛者必衰といった言葉がつきものですが、風に舞う落ち葉に「死」の姿ではなくて、「生」の姿を見ることができます。
落葉樹は、冬を迎える前に、葉柄の付け根の部分に「離層」という特別の組織をつくります。
葉はまだ枯れていないのに、木と別れをつげ大地に落ちて、土になり木々の栄養となっていきます。
「葉落とし」は、冬を生き抜くための知恵であり、生きるための営みです。
生命は無限なものである。
花びらは縁がくれば散る。
しかし、花びらは散っても、花は散らないという世界がある。
(金子大栄)
江戸時代の良寛さんが「うらを見せ おもてを見せて 散るもみじ」という俳句を残しています。
辞世の句ともいわれています。
凡夫の実感としては「散る」と見てしまいますが、「散ると見たのは凡夫の眼 木の葉は大地に還るなり」という味わいも大切にしたいものです。
桜の葉に想う(月のことばより、抜粋しました)
春には鮮やかに咲き誇った桜の花に感銘を受ける。
しかし、その後の葉桜になると、もう桜の木は人々から見向きもされず、それが桜の木であることすらも忘れられる。
でも桜の葉の一枚一枚は、夏の猛暑や台風の風雨にも耐え、陽の光を養分にして、ただひたすら樹木に送り込む。
やがて秋には、その役割を終えて北風に散りゆく時、枯れ葉は周辺の人から疎ましく思われる。
決してめだちはしないけれども、その営みが樹木を支え、また、来春、私たちの目を楽しませてくれるのである。
枯れ落ちた縮れた葉に、心から「ごくろうさん」と言いたい。