平成29年9月法話『眼を開けばどこにでも教えはある』(後期)

「実るほど 頭を垂るる 稲穂かな」という法語が、身近に味わえる季節を迎えようとしています。

人間の「知恵」の生活と、仏さまの「智慧」の世界とは大きな違いがあります。

仏の教えは、知識・学問・教養を高め、「知恵」を誇って賢くなっていく世界(頭を下げる)ではなく、その反対に、仏さまの「智慧」の眼をいただくなかに、今まで気づけなかった愚かさに目覚め、自然に「頭が下がる」身に育てられるのです。

そうしたはたらきは、ご法話の中でしか聞くことができないのではありません。

あるお寺の掲示板に

たねもあり 土あり 水あり 光あり 春夏秋冬 おみのりにあう

とありました。

季節を含め、日常生活こそ聞法の道場といえます。

換言すれば、欲得多い煩悩の日暮らしの中で味わうことができますが、そのことになかなか気づけないものです。

なぜならば、人間というものは、「知恵」を誇り、自惚れ(思い上がり)が強い存在だからです。

お互いに、仏さまの教えに謙虚に耳を傾けたいものです。

 

落ち葉に想う

これから秋の装いも深まってきます。

そのことを、自然の織りなす山々の美しさが教えてくれます。

ことに、紅葉の美しさは、私達にいのちの深さをさりげなく伝えてくれます。

この紅葉の美しさは「朝夕の気温が下がり、根や葉の働きが衰え、葉の葉緑素が壊れてしまうことにより、緑素が消えて赤い色素に代わり紅葉すること」と自然現象として説明できますが、いのちのあり方として見ますと、また味わい深いものがあります。

その様子は心優しき人々にめでられ、実を結ぶはたらきをしていた木々の葉が、散る前にその生命を燃え尽す姿とも見えます。

舞い散る色あせた枯葉の一葉一葉に、いのちの歩みをふと感じるのは、ただの感傷ではないようです。

どの木も紅葉するところとなった 終わりを美しくする
み仏の教えを 彼等が一番 知っているような気がする
(坂村真民)

落ち葉というと、凋落、盛者必衰といった言葉がつきものですが、風に舞う落ち葉に「死」の姿ではなくて、「生」の姿を見ることができます。

落葉樹は、冬を迎える前に、葉柄の付け根の部分に「離層」という特別の組織をつくります。

葉はまだ枯れていないのに、木と別れをつげ大地に落ちて、土になり木々の栄養となっていきます。

「葉落とし」は、冬を生き抜くための知恵であり、生きるための営みです。

生命は無限なものである。
花びらは縁がくれば散る。
しかし、花びらは散っても、花は散らないという世界がある。
(金子大栄)

江戸時代の良寛さんが「うらを見せ おもてを見せて 散るもみじ」という俳句を残しています。

辞世の句ともいわれています。

凡夫の実感としては「散る」と見てしまいますが、「散ると見たのは凡夫の眼 木の葉は大地に還るなり」という味わいも大切にしたいものです。

桜の葉に想う(月のことばより、抜粋しました)

春には鮮やかに咲き誇った桜の花に感銘を受ける。

しかし、その後の葉桜になると、もう桜の木は人々から見向きもされず、それが桜の木であることすらも忘れられる。

でも桜の葉の一枚一枚は、夏の猛暑や台風の風雨にも耐え、陽の光を養分にして、ただひたすら樹木に送り込む。

やがて秋には、その役割を終えて北風に散りゆく時、枯れ葉は周辺の人から疎ましく思われる。

決してめだちはしないけれども、その営みが樹木を支え、また、来春、私たちの目を楽しませてくれるのである。

枯れ落ちた縮れた葉に、心から「ごくろうさん」と言いたい。