「7人も殺した悪い奴は許さん」そういう人が出てきました。
事件後、我が家には無言電話や嫌がらせの電話が殺到しました。
「人殺し」「町から出ていけ」「税金の無駄、自首しろ」脅迫状も20数通届き、中には「お前の家にガソリンをまいて火をつけてやる」など過激なものもありました。
私は1か月ほど入院して退院となりましたが、実態は退院させられたというものでした。
理由は世間の噂でした。
「あの病院は犯人をかくまっている」と松本市内のいたるところで噂されるようになったときに事務長から「河野さん、医療的な措置はもう全部終わってる、ぼちぼち退院してもらいたい。あとは往診という形で面倒を見るから」と言われました。
退院の日、私は弁護士事務所で
「私は事件に関与していない。それと、あなた方の誤報によって私や私の家族が辛い思いをしている。誤報は速やかに訂正してもらいたい」
と抗議の記者会見を行いました。
それから警察の車で参考人として任意の事情聴取に行きました。
私は2日間事情聴取を受けましたが、以後は断りました。
医師の診断書を無視した長時間の取り調べや長男への切り違え尋問の実施、そして自白の強要という不適切な事情聴取が行われたからです。
警察の捜査は執拗に行われますが、私は関与していないので証拠が出てくるはずがありません。
ただ世論の影響などによって警察が焦って「証拠なし逮捕」という行動に出ないように私は対策をとることにしました。
テレビ2社による情報戦を仕掛けたり、江川紹子さんによる「免罪」というテーマの講演も開催し、警察を牽制しました。
反省のないマスコミに対しては訴訟の準備がある旨伝えました。
さらに、日弁連に対して
「私は長野県警から人権侵害を受けた。日弁連は警告書を発するように」
と人権の救済についての申立てをしました。
地元の新聞社に対しては、損害賠償金の支払い請求と五代紙に謝罪広告を掲載してほしいという民事訴訟も提起しました。
1995年元日、読売新聞のスクープ記事が出ました。
山梨県の上九一色村(かみくいしきむら)でサリンの残留物が出てきたというものでした。
ここからマスコミの論調が変わりました。
私が裁判を起こした3月20日、偶然ですが、東京で「地下鉄サリン事件」が起こりました。
6月に入り、オウム真理教の信者から「松本の事件も自分たちがやった」という供述を警察が取りました。
そこで警察はやっと私を容疑者から除外しました。
私は丸1年後にようやく被害者の仲間入り、本当に長くて厳しい1年でした。
どうしてこんなに頑張れたのかと思うとき、一番大きかったのは意識不明でしたが妻が生きていてくれたことです。
妻が死亡したとき、私は子供たちに
「ここで悲しんだら申し訳ない。お母さんは14年間もこんな状態で自分たちを支えてくれた。やっと故郷へ帰れるのだから笑いながら『ありがとう』と言って送ってあげよう」
と言いました。
妻が死んだときに私の松本サリン事件が終わったのです。
私は妻の3回忌を終え、今度は自分のためだけに人生を楽しもうということで鹿児島へ移ってきました。
そして、気がついたときに同居人がステージ4の肺がんに侵されていました。
このとき私たちは、どこかで人の命は終わるわけだからおおらかにいけばいいという感じで、好きなことをしながら死を前提に全部準備していくわけです。
彼女は「がんになっていろいろなことを知ることができた、がんと仲良くする」そんな感じで過ごしました。
がんという病気になっても自分の考え方次第で実は幸せにもなれるということです。
死ぬ前に彼女は「自分は世界で一番幸せな女だった」と言いました。
「幸せ」というものはどこにもあって、それに自分で気づくかどうか、あるいは考え方をどう持つかによって、見える世の中の景色が変わります。
私はやはり、人生を楽しんで終わろうと考えていて死ぬ前の言葉も決めています。
「ああ、面白かった」これで人生を終わろうと思っています。