さつまの真宗禁教史10月(中期)

かくれ門徒の様態(その4)

前回に引き続き門徒の結社〈講〉を概観して行きましょう。

講員たちは聴聞のために取次寺にひそかに越境して赴きました。

取次寺も薩摩門徒のためにいろいろと便宜をはかりました。

たとえば薩摩国に隣接する源光寺(熊本県水俣市)には薩摩門徒が役人の探索から逃れるために造られた「薩摩部屋」と称する隠れ部屋があります。

現存するこの部屋は、明治年間に本堂を改築した時に改造されており原形そのものではありませんが、本堂裏側の六畳敷の余間がこれにあたり、部屋の一部に半間四方のくぐり戸が設けられ、これを開くと本堂の縁の下に逃げ込めるようになっています。

元文六年(1741)11月、肥後水俣の寺に門徒探索のために潜入した役人の報告書には、肥後人をたより自身にも寺参志と偽り、是非寺に忍人外無之と差定め、段々ニ酒等を呑せ承り候処ニ薩摩人ハ兼テハ下座之奥座敷ニ被入由聞せ候故、落着仕、翌二十七日

之夜、陣之町西念寺と中一向寺へ忍入、宗旨之者之様説法之座へ相付、教之通下座奥座敷へ心懸申候処ニ、御国人男女多人数被罷居候内偵ニ見究申候(出水税所家文書)

とあります。

ここに「下座之奥座敷」とあるのが「薩摩部屋」のことでしょう。

そして、嘉永二年(1849)、本願寺の使僧として薩摩に入国した筑前明勝寺探玄が本山にあてた口上書によりますと、肥後西方寺・西念寺・源光寺は薩摩門徒と関係深い寺院で、薩摩より同行が多数参詣していること、これらの寺院を差置いては薩摩への入国は不可能であることなどが述べられており、両者の関係は緊密なものがありました。

また文化十一年(1814)、内場仏飯講・同焼香講・山田煙草講惣代は日向直純寺の後継が幼少でありましたので後見役を果たしています。

隣国の末寺にとっても薩摩門徒の経済力は、看過できないものがありました。

そこで隣接寺院もしばしば子弟などを入国させて伝道を行い門徒との関係を深めました。

嘉永四年(1851)年、本

願寺使僧筑前(福岡県)重誓寺は、熊本光岸寺三男性英・天草光明寺善定・芦北源光寺弟子兼恵・紫明、日向福島正国寺隠居相蘭等が私的に薩摩に入国して伝道している、と上申しています。

(諸記)しかし時として、これら私的入国僧と本願寺使僧との間に手次権や上納金をめぐってさまざまな紛争がおこることもありました。