かくれ門徒の様態(その3)
〈講〉の結成
縷々のべてきましたように鹿児島藩は近世封建社会の成立期より、その体制の確立と維持の為に一貫して真宗を禁止して人々の信仰をも支配しようとしました。
しかし、薩摩の門徒は念仏者の結社〈講〉を結成し、本願寺と密接な連絡をとりながら念仏をまもりました。
それではその講はどのようなものであったか。
前回に引き続き門徒の結社〈講〉を概観して行きましょう。
○講は時として取締りによって解散をよぎなくされた。
しかしやがて再興して旧講名を回復したり、あるいは新しい本願寺より講名をうけた。
このことは政治権力による宗教統制の限界を示すとともに門徒の強固な信仰を示すものとして注目されることである。
○講は本尊を下付されたり、講名を認可されたときには本願寺に懇志を上納した。
懇志の負担は重く年賦で納める時もあった。
上納は講の代表が密かに運搬したり、上京する商人に依頼したり、隣国の末寺に託したりした。
そこで懇志の上納が二・三年滞納することもあった。
○本願寺と講の連絡役を務める寺を「取次ぎ寺」といった。
取次ぎ寺は次のような寺があった。
(「御講仏御示談簿」・「薩摩国諸記」)
日向=直純寺・正国寺・西念寺・西方寺・光明寺・順正寺・正光寺・西性寺大阪=西教寺・浄徳寺。
京都=正光寺(本願寺内)
以上の手次寺の内主要な寺は直純寺(宮崎市)・正国寺(宮崎県串間市)・源光寺(源光寺)であったが、地理的関係上、大隅半島北部の講は直純寺を、同南部の講は正国寺を手次寺にしていたものが多い。