さつまの真宗禁教史1月(後期)

三十九回

鹿児島門徒の信仰(その1)

妙好人千代女

それでは真宗禁教下の門徒たちの信仰はどのようなものであったか、なぜ本願寺と結びつきを執拗に求めたのか」考えてみましょう。

その一つの例は「妙好人伝」に登場する千代女の話をあげることができます。

「千代女は薩摩藩士青木清助の娘で念仏者の篤信者であった。

千代女は京都の本願寺へ参りたいといった願望を持っていた。

そこで寛政五年(1793)十八歳の時、三人の同行と本願寺に参拝した。

ところが、三年後、二十一歳の時、本願寺に参詣したことが役人に知られてしまった。

四人の娘は取り調べを受けることになった。

吟味にあったのは長谷瀬常也という役人で、うら若い四人の娘たちを不憫に思い「あなたたちは、本願寺へお参りしたのではなくて、お伊勢さんへお参りしたのであろう」といい、それとなく本願寺へ参拝したことを否定するように水を向けた。

しかし、四人の娘たちは「私どもは、嘘は申せません。

私どもはお伊勢さんではなく、本願寺へお参りしまし

た」と供述しました。

そこで、長谷瀬常也は困ってしまい「それでは、あなた方は転宗しなさい。

そしたら、命だけは助かるであろう」と、転宗を勧めた。

しかし千代たちは「私たちのお念仏は、阿弥陀さまからいただいたお念仏ですから、私の意志で他の宗派に変わることができません」と、あくまでも自分たちの意志を貫きました。

そこで千代女等四人は首を切られて亡くなった、という話が紹介されています。

ここに「阿弥陀さまからいただいたお念仏であるから、自分の意志では念仏を放棄できない」といった他力信仰を指摘することができます。

そして、鹿児島の門徒たちが厳しい取り締まりをうけながら念仏(信仰)を放棄しなかった理由の一つを指摘できます。

しかしながら、この千代女の言動は本願寺が期待する念仏者像でした。

このような他力信仰がなかったとはいえませんが、民衆の念仏信仰はもっとどろどろとしたものであったと思います。