「父母の孝養」という言葉があります。
この中の「孝養」という言葉は、「きょうよう」と読むときは「亡き父母のための追善供養」を意味し、「こうよう」と読むときは「生きている親に尽くす」という意味になります。
親鸞聖人の語録である『歎異抄』の第五章に
親鸞は父母の孝養のためとて、一返にても念仏もうしたること、いまだそうらわず。
という言葉があります。
この「孝養」は「きょうよう」と読みますから、親鸞聖人は「亡き父母の追善供養のために念仏を申したことは一度もない」とおっしゃっていることが知られます。
この言葉だけを読むと、親鸞聖人は亡くなられたご両親に対して、全く追慕の思いをお持ちではなかったかのような印象を受けます。
けれども、親鸞聖人は、ここで亡き父母に孝養すべきか否かを問題にしておられるのではなく、念仏とはどういう世界かということを明らかにしておられるのです。
それは、現代でもそうですが、一般に「宗教(仏教)=亡き人々の追善供養」という形で受け止められていることから、この問題を通して念仏とはどのような教えなのかを伝えようとされたのだと思われます。
そうすると、ここで親鸞聖人が「亡き両親のために一返でも念仏をもうしたことはない」と言われるのは、私たち生きとし生けるものはみないのちが繋がっており、すべてが父母兄弟なのだから、特別自分の親だけに追善供養をする必要はないと考えておられたからだと思われます。
では「父母孝養のために念仏しない」というのは、いったいどういうことなのでしょうか。
その理由を親鸞聖人は「いずれもいずれも、この順次生に仏になりて、たすけそうろうべきなり」と言われます。
この中の「この順次生に仏になりて」とは、善導大師の
本願を信受するは、前念命終なり。
即得往生は、後念即生なり
という言葉を受けたものだと思われます。
「前念命終 後念即生」とは「阿弥陀仏の本願を信じるところに、我執に生きてきた迷いのいのちが終わり、本願を信じるところに阿弥陀仏の浄土に往生することが決定し、本願に生きるいのちが新たに生まれる」という意味です。
つまり「順次生に仏になる」というのは、阿弥陀仏の本願に随順して生きるということなのです。
そうすると、念仏とは父母の追善供養のために称えるものではなく、阿弥陀仏の本願を信じて生きる新たないのちを生きる私になることだということが明らかに知られます。
続けて親鸞聖人は、
わがちからにてはげむ善にてもそうらわばこそ、念仏を回向して、父母をもたすけそうらわめ。
ただ自力をすてて、いそぎ浄土のさとりをひらきなば、六道四生のあいだ、いずれの業苦にしずめりとも、神通方便をもって、まず有縁を度すべきなりと云々
と、述べておられます。
「いそぎ浄土のさとりをひらきなば」というのは、ただ時間的に急ぐということではなく、そのほかに道はない。
つまり「あなたには浄土への道以外にはないのだ」ということを教えてくださっているのです。
そして「まず有縁を度すべきなり」ということですが、これは「自分の身近な縁の深い人」のことではありません。
もしそうであれば、「父母のための孝養(追善供養)はしない」と言われながら、まず身近な人を助けていくのだということになります。
一番近い人はやはり父母ですから、そうであれば「まず有縁」ではなく「まず父母」とおっしゃるはずです。
では、なぜ「有縁」という言い方をされたのでしょうか。
考えてみますと、一番の有縁の存在は、他ならぬこの私自身なのです。
ところが、日頃私たちは、自分と真剣に向き合おうとすることもなく、自身の事実を少しもきちんと受け止めずに生きています。
そして、自分の思いがかなえば幸せになれるのだと未来に夢を見る一方、現実の自分自身の事実からは目を逸らして生きています。
けれども、この私を生きていくのは、やはり私以外には存在しないのですから、私は私の人生に責任があるのです。
したがって、自分の人生を生きるものとして、私は私の人生を本当に受け止める必要があります。
ですから、「有縁を度すべきなり」というのは、「自らに目覚めよ」ということにほかならず、それを抜きにしては父母の孝養ということもないのです。
このような意味で、父母から受け継いだいのちを本当に受け止め、そのいのちを生きていくことに責任を持つ。
このことを抜きにしては、真の意味での「父母の孝養」ということは成り立たないのだと言えます。