平成30年5月法話『願われて生まれてきた 育てられてきた』(後期)

先日、子どもの学校の授業の一環で、「名前の由来と、子どもへの手紙」を書くことになりました。

近年は「キラキラネーム」と呼ばれる、個性的な名前が話題となり、見聞きすることも多くなりましたが、お寺の関係者の名前もめずらしい名前が多いです。

なぜなら、経典に引用されている言葉や文字を使い決める方もおおく、一般的に使われる文字と違う名前になる場合が多いからですが、どういう経緯であれ、それぞれに名付け親の思いが込められています。

私自身も言うに及ばず、ああでもないこうでもないと、数か月かけてやっと決めましたが、いざ役所へ届け出る時、本当にこれでいいのかと躊躇したことを覚えています。

改めて、アルバム等を見ながら、我が子が母親のお腹の中にいた時のこと、生まれてきた時のこと、成長して現在に至るまでを思い返しました。

まだ母親のお腹の中にいたときは、どうか無事に生まれてきて欲しいと、ただそれだけを願っていましたが、いざ生まれてくると、早く首がすわって欲しい、早く寝返りをして欲しい、ハイハイして欲しい。

子どもが成長するに連れ、願いや思いは次から次へと途絶えることがありません。

手紙を書きながら、ふと私自身の両親と、妻の両親の顔が浮かんできました。

私も同じように両親から今もなお、願いをかけられていること、子どもの時は「うるさいな」と思っていた小言を、今度は私が子どもへ言っている。

妻と結婚を決め、ご両親へ初めて挨拶をした時、結婚式を挙げた時、妻の両親へ対する愛情と共に、両親の妻に対する愛情や願いの大きさに感動したことを忘れることはできません。

私が生まれる前から、私を呼び続け、今もなお願いをかけ続けているのが親です。

昔から南無阿弥陀仏のお念仏をいただく方々は、仏様のことを「親様」と親しみを込めて呼んでこられました。

なぜ「親様」なのか、それは私が生まれる前から、私を心配し、どんな事があっても見捨てることがないと、「南無阿弥陀仏」の声となり、共に人生を歩んでくださっているからだと教えていただきました。

どんな命も、仏の子どもだと言ってくださるのが仏様です。

どんな私であっても、どんな人生であっても、常に寄り添ってくださるのが、親様です。

私が生まれる前から名前を喚び続け、決して見捨てることなく、その命が尽きる時、間違いなくお浄土に生まれさせると誓われ、仏となられたのが南無阿弥陀仏の仏さまです。

こうして不思議にも、私が「南無阿弥陀仏」と口にすることができるのも、仏様、そしてたくさんの命に育てられていることの証しであります。

願われてこの命をいただき、こうして今 育てられている。

そしてまた、たくさんの命を育てているのが、この私の命です。

仏様に抱かれている人生。

振り返ったとき、何が見えてくるでしょうか。