「本願」というのは、一般には「仏や菩薩が過去において、一切の生あるものを救おうとして建てた誓願」のことで、ここでは阿弥陀仏が法藏菩薩としての修行中に建てられた誓願のことです。
この阿弥陀仏の「本願」には、どのようなことが誓われているのかというと「老少善悪の人を選ばれず」と。
この言葉を読むとき、私たちは「阿弥陀仏の本願というものは、老少善悪を選ばないものだ」と読んでしまうことが多いように思います。
けれども、この言葉はそうではなくて「ひとを選ばない」というところが大切なのです。
試しに「老少善悪」という言葉を抜くと、そのことがはっきりします。
どうなるかというと「阿弥陀仏の本願とは、人を選ばないものだ」となります。
つまり、阿弥陀仏は老少善悪を選ばないのではなく、人を選ばないのです。
それは、言い換えると無条件で私たち凡夫を迷いから救い必ず仏にするということです。
親鸞聖人は、ご自身の著述の中で具体的に「身分の尊いものもいやしいものも、在家者といわれている人も出家者も老人も若者も悪人も善人も選ばない。罪の大小も選ばない。長い修行を積んだものも積めないものも選ばない」と、信心とは人を選ばない本願への頷きであると述べておられます。
このように、阿弥陀仏は無条件にして、私たちを救うということを明らかにしているのが「老少善悪の人を選ばれず」ということです。
ところで、この無条件ということですが、私たちは本当に無条件ということがありがたいのでしょうか。
例えば、無条件の本願だからありがたいとか、老少善悪を選ばないからありがたいということであれば、それはそれで通るのかもしれませんが、そこに「老少善悪の人を選ばない」というように、「人」という言葉が入ると、私たちはそのまま素直に喜ぶということにはならないようです。
受験生にとって、東京大学は狭き門です。
誰もが入れるわけではないので、念願かなって合格した人たちは、入れた感激や喜びがあるのです。
もし、無条件に誰もが入れるというのであれば、入学してもそこには何の感動もおこるはずはありません。
あるいは、新しく購入した服を着て意気揚々と街に出たのに、向こうから同じ服を来た人が歩いて来たりすると、あまり嬉しくはなかったりするものです。
つまり、誰もが簡単にはなかなか入れない大学に自分が入れたり、誰もまだ着ていないものを自分が着たりしているというところに、私たちは「特別である」ことの喜びを感じるのです。
そうすると、無条件で救われるからありがたいとは言うものの、私たちは心の中でさらに「私だけは特別に無条件で救ってください」と願っているのではないでしょうか。
そのことを考えさせられる、次のようなやり取りがあります。
ある法話の場でのことです。
布教使の方が
「この身、このままのお救いです」
という話をされたところ、聞いておられたご門徒の方が、
「ああ、この身このまのお救いでございますね」
と返されました。
すると、布教使の方は
「違います。この身このままのお救いです」
と言われたそうです。
それで、ご門徒の方は
「ああ、この身このまのお救いなのですね」
と言われたところ、また布教使の方は
「違います。この身このままのお救いです」
と言われたのだそうです。
阿弥陀仏の本願は、老少善悪の人を選ばないのですから、それは「この身このままのお救い」だという呼びかけだと言えます。
けれども、それを聞く私たちは、「この身このままのお救いですね」と、一度そこで念押しをして、「無条件」ということを条件にしてしまうのではないでしょうか。
布教使の方は、そこをおさえて「違います」と言われているのだと思います。
もし「この身このままのお救い」という言葉が、私に本当に頷かれるならば、「ああ、それでいいのだ」とそれで良しとするのではなく、そのような無条件の救いにあずかりながら、私だけは特別でありたいというところに心を置こうとする自身の愚かさに気づき、「申し訳ありません」ということになってしまうのだと思います。
改めて言うと、阿弥陀仏の本願は「人」を選ばないのです。
それは、言い換えると、誰でもない、この私を救いのめあてとしているということにほかなりません。
そのことを、親鸞聖人は「ひとえに親鸞一人がためなりけり」と讃嘆しておられます。