4月に入りました、新しい年度の始まりです。
入学式や社会人1年目など何かと新しいことが始まる時期ではないかと思います。
ワクワクしている方もいらっしゃれば、不安を抱えている方もいらっしゃるかもしれません。
表題の「出会いには 必ず意味がある」という事について、どのようなことを感じられますでしょうか。
出会いの意味を考えるという事は、ある意味人生の意味を考えるということに近いのかもしれません。
あの人と出会ってとても楽しい時間を過ごすことができた、という事もあれば、あの人と出会ってしまったばかりに大変な目にあってしまった、ということもあるかもしれません。
その時は一時の感情で終わっていたかもしませんが、振り返ってみるとその一つ一つが今の自分の人生を支えてくれている大切な出会いになっているのではないかと思います。
お釈迦様の有名なお話の一つである「キサー・ゴータミー」の話を紹介させて頂きます。
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キサー・ゴータミーは一人の子どもをもつお母さんでした。
幸せな生活を送っていましたが、ある日その子が突然亡くなってしまいます。
そのため、非常に悲しみ、我が子を抱えて涙ながらに「この子を生き返らせて下さい」と村中を歩き回ります。
しかし、死んだ子を生き返らせることは誰にもできませんでした。
ある村人が見かねて彼女に「お釈迦様なら何とかして下さるだろうと」告げました。
彼女はお釈迦様のもとを訪れました。
お釈迦様は彼女の話を聞いて「分かった、それでは、村に帰って芥子の実を三粒もらっておいで」と告げました。
彼女は早速出かけようとしますが「但し、その芥子の実は、今まで一人も死人を出したことのない家からもらってくるのですよ」と付け加えたのでした。
キサー・ゴータミーは、村中を回り芥子の実を探しますが、どの家も「先日親を亡くしたところです」「兄が死んでいます」「おじいちゃんを亡くしました」など一軒として死人を出したことのない家を見つけられなかったのです。
「死人を出したことのない家などないのだ」と彼女は気づかされ、命の無常ということに目覚めていき、お釈迦様の教えに帰依していったとされます。
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大切な人を亡くす悲しみはとても大きいものだと思います。
ほとんどの場合ゴータミーのように立ち直りが難しいものだと思います。
しかし、その大きな悲しみは、同時に先に往かれた方からのはたらきそのものではないかと思います。
遺された人々に涙を流させる確かなはたらきではないかと思います。
浄土真宗をお開き下さいました親鸞聖人は以下の和讃をお示しくださっております。
「本願力にあひぬれば むなしくすぐるひとぞなき 功徳の宝海みちみちて 煩悩の濁水へだてなし」
阿弥陀仏の本願に出会ったならば、決してむなしい人生にはならない、悲しみが悲しみのままで終わらない、どんな悲しみも辛さも、浄土への道と移り変わっていく世界がある、というお示しではないかと思います。
そのような世界を聞かせていただきながら、手を合わせ「南無阿弥陀仏」と称える生活を大切にしていただければ大変にありがたいことでございます。