2019年4月法話『出会には必ず意味がある』(中期)

私たちは、毎日のように誰かと出会いながら生きています。

けれども、その出会い方はいつも一方的にその人を見ているだけで、本当の意味で出会っているかというと、いささか疑問です。

例えば、私たちは日頃よその家庭の良い様を見ると、無意識のうちに「自分の家族もそうあるべきだ」と思い、親なに親に対して、あるいは夫や妻、兄弟姉妹、子どもに対しても自らの身勝手な要求や期待をもとに作った枠をはめて見ようとしてしまいます。

そして、その枠の中に収まらないと、一人ひとりの心の内を尋ねようとすることもなく、腹をたてたり非難したりしてしまうことさえあったりします。

このように、毎日顔を合わせている家族であっても、自分の一方的な見方に終始して、本当の意味で出会っていなかったりしています。

 

そのような私のあり方を考えさせてくれるのが、『涅槃経』の中にある

慚愧あるがゆえに、父母・兄弟・姉妹あることを説く

という言葉です。

「慙愧」とは、慚は自らの心に罪を恥じること、愧は他人に対して罪を告白して恥じることで、また慚は自ら罪を犯さないこと、愧は他に罪を犯させないという意味もあります。

本来、父母・兄弟・姉妹というのは、私が慚愧してもしなくても、既に家族としてあるものですが、一緒に生活をしていながら、私はそれらの人たちにいつも自分の身勝手な思いばかり押し付けて、泣いたり笑ったり、怒ったり喜んだりしています。

 

蓮如上人は、私たちが仏さまの教えを聞くときに「意巧にきくものなり」と、自分の思いに合わせて都合のいいように聞きかえているとして、そのことを繰り返し戒めておられます。

「意巧」というのは、「意(こころ)が巧みに」ということで、自分の思いで意識して聞き違えるのではなく、自ら自覚し、注意して聞いていても、私たちの意(こころ)は、自分の都合にいいように聞きかえてしまうのです。

それと同じように、私たちは日頃出会っている人と「意巧に出会い」、一緒に暮らしている家族一人ひとりとも本当の意味で出会っていなかったりするのです。

 

このような意味で「慚愧あるがゆえに」というのは、自分の出会い方が、まったく「意巧」でしかなかったということを思い知るということです。

そして、どこまでも自分の出会い方が「意巧」でしかないことを常に思い知り、忘れない、そのような心を見失わないときに、少しでも家族の一人ひとりに近付き寄り添うことができるようになるのだということを教えているのです。

 

私たちは、家族との死別の悲しみに直面すると、もう自分の身勝手な思いは押しつけようがなくなります。

そうなった時、初めてそれまで気づかなかったその人の思いに頷くことができるようになるのです。

一般に葬儀の前夜は「通夜」と言いますが、また「夜伽(よとぎ)」という言い方もします。

伽というのは物語をするということですから、「通夜」とは亡くなられた方と自分との出来事を、夜を通して物語るということになります。

そして、それまでは思い出すこともなかったような亡き方に関する樣々なことが、まるで走馬灯がクルクルと回るかのような調子であれこれと思い出され、そのことを通して自分と亡くなられた方とこの人生において出会ったことの意味を思い返しながら確かめていくのです。

 

私たちはいつも自分の都合だけで周囲の人たちを見て、しかもその人のことが分ったつもりになっています。

そのため、自分にとって都合の良い人との出会いは喜ばしいことと受け止める一方、都合の悪い人との出会いは「出会わなければよかったと歎いたりします。

 

けれども、その出会には必ず意味があります。

人生における希望や示唆を与えてくれる有り難い人もいれば、「反面教師」という言葉があるように、決して見習ったりしてはいけないことをしていたり、進んではいけない方向に足を踏み入れている人もいたりします。

善きにつけ悪しきにつけ、この人生において私が出会うすべての人は、私に人生の意味を教えてくれる大切な人たちです。

 

どれほど意識していても、日々出会う一人ひとりの人を、自分の都合のいいようにしかとらえることができないということを忘れず、出会ったことの意味を確かめられるような生き方をしたいものです。