「葬儀の意義」

先月、新聞の記事を見ていて、一瞬目を疑うということがありました。「個人の喜ぶことを想像する」というタイトルで掲載されていた寄稿文の冒頭に、「葬儀は死者を慰める慰霊であると同時に、残された人の痛みを和らげる追悼の場でもあります。」という一節があったからです。なぜ目を疑ったのかというと、執筆者が浄土真宗本願寺派の寺院の住職だったからです。

いったいどこが問題なのかというと「葬儀は死者を慰める慰霊である」と述べておられる箇所です。死者を霊と位置付け、その「霊(死者)を慰める行為」が葬儀だと定義付けされているのですが、仏教がめざしているのは「成仏」、言い換えると「仏陀(覚者)となること」です。つまり仏陀である釈尊が説かれた教えであると同時に、その教えを聴く者を仏陀の悟りへと導くのが仏教です。

にもかかわらず、亡くなられた方のことを「霊」と述べておられるのですから、これでは亡き方のことを「成仏しておられない」と断言しているのと同じことになります。さらにそれは、亡き方は阿弥陀如来の本願のはたらきによって仏さまとなられたと信じておられるご門徒の方に対して、「(仏さまにならたれのではなく)霊になってさまよっておられます」と言っているのと、等しいことになります。

そもそも「慰霊」というのは「霊を慰める」ということですが、一般に幸せな人や喜んでいる人を慰めることはありません。「慰める」というときには、少なくともその対象者が悲しんでいたり苦しんでいたりするということが前提になります。したがって、亡き方がお浄土に往かれて仏さまとなっておられるのであれば、慰める必要などありませんし、仏さまとなられた徳を讃嘆することが仏教的在り方だといえます。このような意味で、仏教徒に対して「慰霊」という言葉を用いることは「仏さまになってはおられない」ことを前提にしているのですから、慎むべきだと言わざるを得ません。

「葬儀」について、浄土真宗本願寺派では次のように説明しています。

 

「生」に執らわれ、死の現実から目を逸らせがちな私たちに、(亡き人も含めて)一つのけじめとして死を受けいれさせ、一歩前に進む契機を与えるのが葬儀です。

葬という字は、原野に屍を安置する形ですが、これは放置するのではなく、遺体の変わりゆくすがたを直視し、死を受け入れる行為を意味します。また、屍や死という字は、残骨を拝するかたちの象形文字です。すなわち、亡き人の死を受け入れ、今後は亡き人を敬うべき存在として崇めていくことを表すのが「葬」という言葉です。

 

したがって、葬儀とは、亡き人のいのちを死で終わらせることなく、普遍的な価値を持って関わり続ける存在と私たちが受け止めていく儀式と言えるでしょう。

浄土真宗の宗祖・親鸞聖人の書かれたものの中には先祖という言葉はありません。では、先祖について全く問題しておられないのかというと、親鸞聖人は先に往かれた大切な方々を「諸仏」という言葉で語っておられます。私に先立った人が諸仏となるというのはどのようなことかというと、亡くなった人の霊がどこか次の世に生まれるまでさまよっていて、「どこか良いところに生まれることができますように」と願って、葬儀や法事を営むようなことは一切しません。なぜなら、私をして真実の教えに出会わせてくださった縁ある人々が諸仏だからです。そのため、亡くなった方が仏であるということは、私の生き方を離れて仏であるというわけにはいきません。

亡くなった方が諸仏だということは、亡くなった方を縁として、私の生き方が問われ、そのことを通して私が本願の教えに出会うことができる、そのように尊い縁となったときに、初めて亡くなられた方が諸仏となられるのです。ですから、親鸞聖人におかれては、自らが本願念仏の教えに出会うことができたという一点において、一切の人々を諸仏と仰いでいかれたのだといえます。

時折、うまくいかないことがあると「先祖が迷っているのではない」「墓参りが足りないのではないか」といったことを口にされる方がいらっしゃいます。私にとって、亡くなられた方がそのような愚癡の種にしかならなければ、残念ながら亡くなられた方が仏さまになっているとは言い得なくなります。やはり、亡くなられた方を縁として、私が念仏申す身になるというときに、亡くなられ方が諸仏になっていかれるのです。

こういった、浄土真宗の基礎的観点から浄土真宗本願寺派の寺院の住職が、安易に葬儀を「死者を慰める慰霊である」と表現するのは、いかがなものかと思ったことです。

【確認事項】このページは、鹿児島教区の若手僧侶が「日頃考えていることやご門徒の方々にお伝えしたいことを発表する場がほしい」との要望を受けて鹿児島教区懇談会が提供しているスペースです。したがって、掲載内容がそのまま鹿児島教区懇談会の総意ではないことを付記しておきます。