2021年7月法話 『今日もまた 幸福求めて四苦八苦』(中期)

「人間とはどのような存在か」ということを考える場合、いろいろな表現があると思いますが、その一つとして「願いに生きる存在」と言うことができます。では、その「願い」の内容は何かというと「幸福になること」です。実は、そのような在り方は今に始まったことではなく、人間の本質そのものだと考えられます。なぜなら、既に古代ギリシャの時代、哲学者のアリストテレスが「人間は誰に教えられたわけでもないのに、誰もがみな幸福になろうと思って生きている」と述べているからです。

では、いつから人間はそのように願いながら生きてきたのかというと、おそらくこの地上に誕生して以来ずっとではないかと思われます。それは、人間の歴史とは、よりよい生活を願い、幸福を願って思考し、それを実現するための取り組みを繰り返すことによって展開してきたといえるからです。つまり、原始人から現代人に至るまで連綿として続いている人間の歴史とは、最初に一人の人間が幸福になりたいと願い考えて取り組んだことが、次第に受け継がれ無限に広がってきたものにほかならないといえるわけです。そうすると、人間とはまさに「幸福探求を継承し続ける存在」ということになります。

ところで、無数の人間がそのことを受け継いで現在に至っているのですが、その営みは未だに終わっていませんし、相変わらず誰もが忙しそうに幸福を求め、まさに四苦八苦しているというのです。

この「四苦八苦」という言葉は、仏教の四法印の一つ「一切皆苦」を端的に言い表したものです。お釈迦さまの教えは、伝統的なバラモン思想や六師外道と呼ばれる自由思想家など、当時のインド思想一般を批判し、それを超えて新たに説かれたものです。そこで仏教徒は、諸々の思想との根本的な違いを四つの項目にまとめ、他の教えと区別する目安としました。これが四法印ですが、「印」とは旗印を意味し、もしこの条件が備わっていれば、その思想は仏の教えに間違いないと断定するための根拠とされました。したがって、その教えが仏教思想だとして伝えられていても、四法印に照らしてみて明らかな相違が認められた場合、それは仏教ではないということになります。

「一切皆苦」とは、すべてのものが苦しみであるということです。一切は変化し、永遠なるものはありません。私たちが、何かそれらに対して執着すれば、必然のこととして苦しみが生まれます。そのため、仏教で「苦」という場合は、苦しいとか痛いということよりも、「自分では思い通りにならないこと」を意味しているのだといえます。その「苦」を端的に言い当てたのが「四苦八苦」という言葉です。「四苦」とは、「生・老・病・死」で、「八苦」とは四苦に「愛別離苦(愛する人と別れる苦しみ)・怨憎会苦(怨み憎む人と会う苦しみ)・求不得苦(求めるものが得られない苦しみ)・五蘊盛苦(存在を形作る五つの要素から生じる苦しみ)」の四つを加えた八つの苦をいいます。

さて、人間は原始人から現代人に至るまで連綿として幸福を求め続け、それを発展といい、進歩という言葉で言い表しながら、ときにはその成果を謳歌したりすることもあるのですが、決してそこで満足することなく、それこそ執念のように幸福を求める営みを次から次に受け継いでいるといえます。

それは、見方を変えると、真の意味での幸福を手にすることができていないからではないかと思われます。だいたい、本当の幸福とは、いつでも現在形である必要があります。過去・現在・未来といいますが、過去とは「過ぎ去りし今」のことであり、未来とは「未だ来らざる今」のことです。つまり、私が生きているのはいつでも「今」、この現在なのですから、今が幸福でない限り、真の意味での幸福は語り得ないのです。

ところが、一般に私たちが幸福を求めている幸福は、いつでも未来において実現するものとして語られます。それは、現在を生きている私が未来というものに幸福を夢見る一方、未来に夢見た幸福から現在の自身のあり方を悲しんでいる。幸福を求める心の奥には、そのような感情が流れているように思われます。

そして、その幸福は概ね他人との比較の中で考えられ、語られ、求められています。そのため、幸福はいつでも他の人の上にあり、自分の中では未来にはにあっても現在にはないため、私にとって現実にあるものはいつも不平不満ということになってしまいます。

ところが、それではやりきれないということで、自分よりうまくいっていない人に目を向け、「あの人より自分はましな方だし、むしろ幸福な方ではないか」と自らを慰めたりもします。状況としては何も変わっていないのに、自分より幸福そうな人を見ては不幸だと嘆き、その一方で自分より不幸そうな人を見ては幸福な人生だと誤魔化しているのだといえます。

幸福とは、人によってそれぞれその内容は千差万別ですが、つまるところ誰もが思い描いているのは「私の人生が私の思い通りになりますように」ということです。けれども、お釈迦さまが「一切皆苦」という言葉で明らかになさったこの世の中の真理は、「私の思い通りにならない」ということです。

そうすると、私たちは自分の思い通りにならないことに満ちあふれているこの世の中にあって、「私の人生が私の思い通りになりますように」と願いながら生きているのですから、その過ちに気付かなければ、人生のすべてが無駄に終わってしまうことになります。そのことを親鸞聖人は「空過」という言葉で教えておられます。

私たちが願っている人生とは、苦しいことや悲しいことなどなく、喜びと楽しみに満ちあふれた日々か続くことです。けれども、人間である限り、縁ふれ折りにふれ、望まないこともいろいろ生じてきます。したがって、人生の事実のすべてが空しいものに終わってはならない。たとえ苦しくても悲しくても、その一切が空しく終わることがない。悲しみの中にも人生の意味が見出され、苦しみの中にも無駄ではなかったといえるものが感じられない限り、人間の一生は本当に生きたとは言えない、それが親鸞聖人のお気持ちだったのではないかと思われます。

本当の幸福とは何か、人生が無駄に終わることのない生き方とは何か。私たちが、人として問うべき問いに出会うとき、それまでの人生のあり方を方向転換させるものこそ、真実の教えだといえます。そして、その教えの前に私を立たしめるものこそ、幸福になりたいという願いをもって生き行く悪戦苦闘の努力です。その努力が誠実であればあるほど、その苦悩はむしろ大きくなるのですが、けれどもその苦悩が一方では私を真の意味での幸福になる道はここにあるのだということを明らかにする教えの前に私を導いてくれることになるのだと思います。

求めないところには、決して真の幸福は得られません。けれども、真の幸福を求めて必死に頑張っても、求めぬいたあげくにわかるのは、何が幸福で何が不幸なのか、自分にはわからないということです。けれども、そこに到達したときに、はっきりとわかることがあります。それは、人間を支えている本当の願いというものは、未来に限りない夢を見よということではなく、自身の現実を直視することの大切さです。

ともすれば、私たちは自分の足下に目を向けることなく、自身の外に向かって願いをかけていくことに終始しています。まさに、幸福を求めて四苦八苦しているのですが、そうする中に真実の教えに出会うことによって聞こえてくるのが、自分は未来に幸福を求めるために生まれてきたのではなく、幸福になるために生まれてきたのだという、いわば私にかけられた願いの声です。それは、人間がかけた願いではなく、人間にかけられた願いです。それを親鸞聖人は「如来の本願」と教えておられます。

このような意味で、私たちは日々幸福を願い求めて生きているのですが、必死の努力を重ね、その誠実さを尽くす中において真実の教えに出会うとき、私たちは真の意味での幸福とは何かということに深く頷くことができるのだといえます。