*報恩感謝の仏事として
まず、地鎮祭という言葉から確認してみますと、地鎮「祭」と書きますので、これは仏式ではなく、神式(神道式)の名称になります。辞書によりますと、地鎮祭は
「土木建築工事などで、工事に着手する前に、工事中の安全無事を祈り、また、その土地の神が怒らないように鎮める祭儀」(※1)
と説明がなされています。地鎮祭とは文字通り、「土地を鎮(しず)める祭儀」を神道で行う式のことでしょう。
さて、私ども浄土真宗では、こうした神式の意味合いではなく、「起工式」(※2)と称して、「仏事」としてお勤めをいたします。仏式でありますので、ご本尊を式場に安置し、仏前にこれを報告して「報恩感謝」の思いをあらわす儀式になります。
*「いのち」に気づかされて
私たちは、不思議なことに今ここに生を受けて生きています。生きているということは、どうも「命」と呼ばれる働きが動いているということなのでしょう。そしてそうした個々の「命」を支えているであろうすべてのモノ・コトを含意する言葉として、「いのち」と表記して用いることがあります。これは生物・非生物を問わず、今すでに頂いている「めぐみ」としての「いのち」を表現してのことです.
例えば、今わたしが腰かけている木製のイスは、元をたどれば、森の木々の一つであり、木を育てた土であり、その木や土にも栄養を与えた微生物であり、水であり、空気であり、太陽の光であり、そして伐採し加工を施した職人の方の技術の賜物であり、そうした数えきれないほどの過程を経て、今ここで、このイスとして使用している、腰かけているということでしょう。
このイスひとつにも、「いのち」の広がりと深さがある…、そんな「めぐみ」に気づかされます。
*浄土真宗の門徒として
浄土真宗の正依の経典である『仏説無量寿経』(上巻)の「讃仏偈(さんぶつげ)」には、
「一切恐懼(いっさい くく)、為作大安(いさ だいあん)」
「おそれなやめるもろびとの 憩いの家とならんかな」(意訳:さんだんのうた)
と、すべての衆生のために「大安心」の「憩いの家」にならんことが、すなわち、おそれ悩める一切の「いのち」を「大いなる安心」の「家」となって救いたいとの仏さまの誓いが宣べられています。
また、親鸞聖人の言葉を伝える『歎異抄』には、
「念仏者は無礙(むげ)の一道なり」(第七条)
と、「さまたげが さまたげで なくなる人生」(※3)への道が示されています。したがって、念仏者には、おそれを鎮めなければならないといった「不安」をはさむ余地はないわけであります。
さらには、こうした起工式などに際しては、日の良し悪し(吉凶)を心配するなどの必要もございません。なによりも、人間では量(はか)りしれないモノ・コトすべての「いのち」の「めぐみ」を、関係者共々と「報恩感謝」する仏縁といただくことが肝要です。(※4)
私どもは浄土真宗の門徒として、家屋、施設、碑などの建築にあたっては、あらゆる「いのち」尊し、との仏さまの願いを通して、今ここに至る「いのち」への気づきを新たに、大安心の仏事を執り行わせていただくのです。
(※1)国語大辞典『言泉』
(※2)ここでの起工式のほか、上棟式、定礎式、竣工式、また建碑式(墓を建てた場合)等、種々の記念となる仏事を奨励しています。
(※3)『日めくり歎異抄』(本願寺出版社)
(※4)浄土真宗本願寺派の「宗制」の第5章「宗範(しゅうはん)」には、「本宗門に集う人々は、親鸞聖人の行跡を慕い、常に阿弥陀如来の本願を依りどころとする念仏の生活にいそしんで仏恩報謝に努め、現世祈祷を必要としない無碍の一道を歩むのである。」と「念仏者の生き方」が述べられています。