2022年10月法話 『相手の目線でみると違った世界がみえてくる』(前期)

以前法話で「ウサギと亀」のお話を聞きました。

あるところに足の速いウサギがいて、仲間とかけっこするのが大好きでした。そんなウサギは足の遅い亀の事を笑います。亀はむっとしてウサギをかけっこの勝負に誘います。ウサギは自分が負けるはずないと高を括り、勝負を受けます。足の速いウサギはスタートと同時にあっという間に亀を置き去りにして先に行きます。勝ちを確信したウサギは、競争の途中で昼寝をしてしまいます。亀はウサギが寝ている間に着実にゴールに向かって歩みを進め、ついにウサギを追い越します。亀はそのまま休むことなく進み続けゴールします。勝負に負けてしまったウサギはそれ以来、亀のことを笑わなくなったという話です。

とても有名な童話で、誰もが一度耳にしたことがあるのではないかと思います。日本でこの話は、慢心したウサギへの戒めや地道に歩みを重ねる亀の素晴らしさを説いたものだというのが一般的だと思います。間違いではないと思いますが、この話を外国の人に聞かせると、日本のそれとは違った反応がかえってくると言います。それは亀の行為についての疑問だそうです。なぜ亀は寝ているウサギの横を素通りしたのか、そこが腑に落ちないようです。亀はウサギの病気や怪我を疑わなかったのか。また、寝たままのウサギに勝利して満足なのか等、色々な意見が出たと言います。

亀の行為について、国によって感じ方が異なるのは面白いと思いました。これは、それぞれの生活環境や価値観の違いによるところが大きいとのことですが、私自身普段の生活で自分の見方が他人のそれとは違う事に気を付けたいと思うことでした。

ひるがえって仏さまの目線でみると、世界はどう見えるのでしょうか。仏さまの目線は、物事をありのままに見ることだと言います。私たちにとっても大事な目線ですが、これがとても難しいことだと言います。なぜなら物事をありのままに見ることは、自分にとって辛く悲しい事柄であることが多いからです。

あるご門徒さんで、足が不自由な方がいらっしゃいます。以前は、歩くことには全く問題がなかったのですが、年齢を重ねるうちにだんだんと足が弱っていき、歩くのに痛みを伴い出したといいます。治療や手術をして、痛みなく歩けるような足にしたかったそうですが、お医者様から元の状態に戻る事はないということをはっきりと告げられたと言います。そのことがとても辛かったとそうですが、時間が経ち、今では自然な人体のあり方として受け止めているとの事でした。「この痛みが、私の目を覚まさせたように思います」とも言われました。

仏教では、人間は生まれながらにして自分を中心とした世界を生きていると言います。言い換えれば、自分にとって都合のいいものだけを見聞きし、それを拠り所として生活しているのがこの私の相なのだと知らされます。それゆえ私自身の見る力というのは、まったく信用できないのかもしれません。しかし、逆に自分にとって不都合な事実こそが、私の目を覚まさせる、私にありのままの物事の見方、仏さまの眼差しを与えてくれるのかもしれないと思う今日この頃です。

合掌。