2022年9月法話 『往生 浄土へと日々新たに生まれ往く』(後期)

「往生」とは、本来、阿弥陀如来の浄土に往き生まれることです。日常的に使われるような、途中で行きづまったまま身動きが取れなくなることではありません。

阿弥陀如来の本願には「あらゆる人々に南無阿弥陀仏を信じさせ、称えさせて、浄土に往生せしめよう」と誓かわれています。

浄土真宗の往生は、この阿弥陀如来の本願のはたらきによる往生です。親鸞聖人は、如来のはたらきにより信心を得て念仏する人は今この人生において、「必ず仏になるべき身」(現生正定聚)となり、命終わった時には浄土に生まれて必ずさとりに至る(往生即成仏)と示されています。

私たちにとって大事なことは、この人生において如来のはたらきをうけいれること、つまり、信心を得て念仏する身にならさせていただくことです。それはそのまま往生する身とならさせていただくことなのです。阿弥陀如来の本願に気づいた人は、それぞれの人生を大切に歩むことができます。 (本願寺「パンフレット」より一部抜粋)

「お浄土が、にぎやかになりましたね」

ある人に、母が亡くなったことをメールで知らせると、ほどなくこんな返事がきました。

これは、こういう言葉を発信する側も受け取る側も、両方が、「お浄土」という世界を持っているからこそ成立する会話なのかも知れませんが、このひと言によって、どんなに心が潤い、温められたか、今も忘れることができません。

つくづく、死んでおしまいになるのではなく、お浄土があってよかったと感じた瞬間でした。

今生の命が終わってどうなるのか、なんの心配もいりません。お浄土に生まれるのです。だから、「往生」というのです。

往生とは「往きて生まれる」のです。迷いの人間の世界から、悟りの仏さまの世界に向かうのですから、「いく」と言います。 (御堂さん「仏事の小箱」より一部抜粋)

浄土真宗には、「倶会一処」(倶にお浄土で会いましょう)という法語があります。金融界で活躍されました、松木清さんは言われました。「自我中心の垣根ずくめのこの世から、隔てのない世界へ往って一緒になりましょう」と。往生を明るいものとして説いたところに、親鸞聖人の教えの有り難さがあります。

平成19年の「築地本願寺新報」 に中央相談員(当時)の宮本義宣氏が記しています。以下は要約です。

「多くの重大事件を担当した伊藤検事総長(当時)が、『人は死ねばゴミになる』という著書を著し、ベストセラーになりました。この本のテーマは、人間は死後には肉体は灰になり、魂は消えてなくなってしまうというということでした。娑婆の世界を一生懸命に生き抜いても、死は儚くも虚しいものと感じていることに、その時、多くの人が同じ思いをもったのかもしれません。

・・・浄土真宗の門徒は、この肉体は灰になっても、「ほとけのいのち」「さとりのいのち」にさせていただくという世界観、価値観で生きてきました。

・・・「死んでゴミになる」という生き方もあれば、「わが命尽きたとき、ほとけのいのちに成らしていただく」という生き方もあります。

私がどういういのちを生きているのかで、人生観も、自ずから違ってくるのではないでしょうか。そして、自らのいのちは「ほとけのいのち」に成らしていただくいのちだと思えたとき、楽しい時も、辛い時もあるこの娑婆世界を、精一杯生きてみようと思えるのではないでしょうか。

また同時に、他の人のいのちも、同じように「ほとけのいのち」に成る大切ないのちなのだと思えるのではないでしょうか。」

まさしく「往生」とは、「浄土へと日々新たに生まれ往く」ことであります。

西本願寺の『私たちのちかい』の中に、次のような文言があります。

「自分だけを大事にすることなく 人と喜びや悲しみを分かち合います 慈悲に満ちみちた仏さまのように」